感謝はマナーでも義務でもありません

感謝はマナーでも義務でもありません

こんにちは!

昨夜はきのこカレーを食べた
赤木です。

と言っても、レトルトですけどね。

タイに住みながら、わざわざ
日本のレトルトカレーを取り寄せて、
食べるのが趣味なのです。

趣味のカレーブログもありますので、
よろしければどうぞ。

http://ameblo.jp/aka-9999

さて今日のテーマは、
感謝することについてです。

「ほら、ありがとうって言いなさいよ。」

そう言って子どもを叱るお母さんの姿、
よく見かけませんか。

子どもに「ありがとう」と言わせることが、
躾だと思っているのでしょうね。

でも、これは間違っていると思います。

いきなり挑発的な発言ですみません。

でも、感謝というのは、
やらされることではないと思うのです。

「そりゃ自発的に言えば一番いいけど、
言わないんだから
最初は言わせるしかないでしょ。」

「ありがとうが言えたら、
他の人からもかわいがられるんだから、
この子のためになるのよ。」

おそらく、そんなところが理由で、
躾ようとされているのだと思います。

でもね、
心がこもらない「ありがとう」を言っても、
また相手から言われても、
そこに何が残るのでしょうか?

まず「ありがとう」が言えないのは、
「ありがたい」と感じていないことが
原因にあると思います。

生まれたばかりの子どもは、
「お母さんがおっぱいを飲ませてくれて
ありがたいなあ。」
なんて考えませんよね。

子どもは発達過程のどこかで、
感謝の気持ちを感じるようになるのです。

では子どもは、
どうやって感謝の気持ちを
抱くようになるのでしょう?

その発達過程を見てみましょうか。

生まれたばかりの子どもは、
ほとんど何もできません。

それを親など大人が、
かいがいしく世話をすることで、
生きていけるのです。

親にしてみれば、
大変な手間がかかるでしょう。

でも子どもは、
それがあって初めて生きていけるのです。

つまり、子どもの立場からすれば、
親に面倒をみてもらうのは、
最初は当たり前なのです。

誰かが、「ありがとう」の反対は
「当たり前」だと言っていましたね。

まさにその通りだと思います。

ところが子どもは、
自分の思い通りにならないことも
体験します。

お腹が空いたのに、
なかなかおっぱいを飲ませてもらえない。

世の中に、
「当たり前」じゃないこともあると
自覚するのです。

それで初めて、
「ありがたい」ことがあるとわかります。

ただ、それなら最初から、
親が子どもの思い通りに
ならなければ良いかと言うと、
そうではありません。

児童精神科医の佐々木正美さんは、
乳幼児のときは、
100%受け入れられるという体験が
重要なのだと言います。

自分は自分のままで受け入れてもらえる。

その体験が自己肯定感を育み、
それによって、
他者に対する肯定感も生まれるからです。

他者が他者であってOKと思えるから、
自分の思い通りにならない体験を、
受け入れられるようになるのです。

このような発達過程を経て、
子どもに感謝する気持ちが生まれます。

その気持ちを表現する言葉が
「ありがとう」なのであって、
子どもに社交辞令を学ばせるのは
間違っていると思うのです。

だいたい、感謝を
マナーだとか義務だとか考える人は、
相手に対して感謝することを
要求しがちです。

「ありがとうぐらい言いなさいよ」と
直接的に言ったり、
「あいつは感謝もしない」と批判して、
間接的に表現することもあります。

これでは、何か親切にすることも、
相手の感謝との取引きであって、
自発的な愛の行為ではありませんよね。

以前、
恵まれない子どもを支援していたとき、
その交流会に参加したことがありました。

そのときある方が、
こんなことを言われました。

「いくら支援しても感謝されないと、
やる気がなくなっちゃうわよね。」

みなさん、うんうんと同意されてましたが、
それも社交辞令でしょうか。

私はそのとき、
ひどく違和感を感じたのを覚えています。

「感謝されないならやりたくない」
という考えが、
なんだかスッキリしなかったのです。

そういう気持ちになるということは、
私でもわかります。

でも、それをそう表現しようとすると、
とても違和感を感じるのです。

今の私なら、
それは当然のことだと考えるでしょう。

だって、愛ではなく取引きなのですから。

本来、愛であるはずの自分が、
取引きしようとしているなら、
違和感を感じて当然です。

そもそもの間違いは、
感謝をマナーとしてしまったことです。

マナーを、自発的に相手を思いやる行為
とするならまだ良いのですが、
すぐに義務になってしまいます。

つまり「すべきこと」と考えるから、
そうしない人に対して腹を立てるのです。

たとえば電車の中で、
携帯電話を使用しないということも、
一般的にマナーだと言われています。

でも実際は、
みんな義務だと思ってますよね。

だから、
守らない人に対して腹を立てるのです。

義務というのは、愛ではありません。

愛とは自由であり、
自発的なものだからです。

義務はやらされているものですから、
他人に強制されることです。

では子どもに、
躾は要らないのでしょうか?

躾とはそもそも、
親の価値観に従わせることですからね。

前出の佐々木さんは、
躾は伝えて待つことだと言います。

できるようになるまで待つ。

つまり自発的にやるまで待つことが、
躾なのだと言うのです。

その行為が仮に、
親の価値観でやってほしいことであっても、
無理にやらせるのと、
自発的にやるのとでは、
まったく意味が違います。

自発的にやる限りにおいて、
仮にそれがルールであっても、
義務ではなく自由な行為なのです。

「ありがとう」というのは、
「当たり前」じゃないと認識したときの
喜びを表現する言葉です。

なんて素晴らしいんだという、
感動を表現する言葉です。

それなのに、その言葉を義務にするのは
なんともったいないことだろうと思います。

せっかくの美しい言葉なのに、
それを汚してしまうのですから。

「ありがとうって言いたくないなら
言わなくてもいいけど、
将来、苦労するのはあんただからね。」

そうやって子どもを脅す親もいますが、
感謝の気持を抱かせたくないのかと
思ってしまいます。

感謝は、愛に触れて感動するから
生まれてくるのです。

最初に言ったように、
子どもはまず完全な愛を体験し、
次に愛でないものを体験します。

その両者を体験することで、
次に愛を体験した時に自然と、
その素晴らしさをたたえたくなるのです。

それが、
「ありがとう」という感謝の言葉なのです。

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