何も必要ではないことの証明

何も必要ではないことの証明

こんにちは!
また妻が田舎に帰ってしまった
赤木です。

詳細はブログの方に書いてますので、
そちらもご覧くださいね。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/371887956.html

ブログにも書きましたが、
今回から情報発信の比重を
メルマガに置くようにします。

ブログのコンテンツ(内容)も
かなり充実してきたので、
そろそろメルマガを重視しようと
思ったのです。

メルマガ読者の方々は、
私の話を聞こうという姿勢が
あると思います。

そういう熱心な方々を相手に、
濃い内容をお伝えすることに、
力を注ぎたいと思うのです。

さて、ブログにも書いたのですが、
妻が帰省した理由は、
お義父さんが危篤になったためです。

そして先ほど、
お亡くなりになられたそうです。

この場をお借りして、
ご冥福をお祈りします。

私も葬式に出席するため、
近いうちに妻の実家へ行きます。

タイの葬式は、
3日から1週間くらいかけて行われます。

毎日、夕方から葬儀を行うのです。

最後の日は火葬の義で、
ご遺体を火葬にします。

家族は、
大変な儀式を取り仕切ることになりますが、
これが良いのだと思います。

何もすることがないと、
あれやこれや考えてしまって、
精神的にまいってしまうからです。

しかし、
やらなければならないことがあると、
そのことを考えざるを得ないため、
無用な考えを頭から追い出すことが
できます。

悲しいときは、
悲しみに浸ることも大切ですが、
自身の健康のためには、
忘れる時間も大切なのです。

私も失恋の苦しみの中で、
やらなければならない新聞配達という
仕事があったことが救いになりました。

そういう経験からも、
やらなければならないことがあるのは、
ある意味で救いなのです。

妻のお義父さんは、
たしか56か57歳くらいだったと思います。

いずれにせよ、
まだ還暦にもならない若さです。

何が起こったのかわかりませんが、
4月にお会いしたときは、
まだお元気そうでした。

その後、
暑い日に倒れられたことが1回ありました。

熱中症だろうと思っていたのですが、
そうではなかったのかもしれません。

人はいつ、死んでしまうかわかりません。

けれども確実に死にます。

そのとき、
どれほど大切にしていたものであっても、
手放さなければならないのです。

私たちは死というものを、
どうしても残された側から考えがちです。

けれども、
間違いなく自分が死ぬのであって、
誰かを残して逝くのです。

大切な家族を、恋人を、ペットを、
大事にしていた様々な物を、
もちろんお金や財産も、
残して逝かなくてはなりません。

そのことを、
「悲しい」という見方で
見ることもできますが、
別の見方で見ることも可能です。

それは、
「必要ではない」という見方です。

考えてみてください。

それまでどれだけ
「お金が必要だ」と考えていても、
死ぬときは必要なくなるのです。

恋人に対してどれほど
「あなたのことが必要なんだ」と
言っていたとしても、
もう必要じゃなくなります。

そういうことを考えてみると、
本質的に必要なものは
何もないことがわかると思います。

もちろん、
心情的にそれがすぐに受け入れられない
ことはわかりますよ。

でも、ここはまず、
理屈で考えてみてください。

理屈から言えば、つまり論理的には、
死にゆく人にとっては
何も必要ではないのです。

これを第一定理と名づけましょうか。

第一定理:
「死にゆく人にとっては何も必要ではない」

では次に、
その「何も必要ではない」という
「死にゆく人」の時刻kを、
ごくわずかn秒だけ誕生側に戻しましょう。

n秒は、充分に小さい値とします。

ちょっと数学的でしょ。(笑)

「死にゆく人」の時刻をkとすると、
k-nという時刻になりますが、
そのときその人には何か必要でしょうか?

このとき、
このn秒が限りなく小さい値だと
考えてくださいね。

たとえば、0.000000000001秒くらい。(笑)

まあ普通に考えれば、
「気持ちは同じだよね」となるでしょうね。

つまりこれによって、
もし第一定理が正しいなら、
それよりもn秒前の人にとっても、
何も必要ではない、
ということが証明されます。

これを第二定理と名づけます。

第二定理:
「n秒前の死にゆく人にとっても
何も必要ではない」

(ただしnはごく小さな値)

では今度、
元々のkにk-nを代入します。

そうすると、
n秒前の死にゆく人にとって
何も必要でないとするなら、
さらにn秒前の死にゆく人にとっても、
同様に何も必要でないと言えますよね。

これを次々に繰り返すと、
どうなるでしょうか?

もうわかってきましたよね。

つまり究極的には、
人はいつでも、
何も必要ではないのです。

以上、証明終り!

なんだか煙に巻かれたような
気分かもしれませんね。(笑)

でも、
死に直面したときに何も必要でないなら、
本質的にはいつでも、
何も必要ではないのです。

なぜなら、
人は常に死に直面しているからです。

ただ、
そのことに気づいていないだけです。

あるいは、
あえて考えようとしないだけ。

明日も明後日も、
来年も再来年も生きているだろうと、
勝手に想像しているだけなのです。

ここが人生の面白いところです。

いつ死ぬかわからないけど、
確実に死ぬことはわかっている。

それを突き詰めて考えれば、
いつも「今」が死に直面しているのです。

インド独立の父、マハトマ・ガンジーは、
次のように言っています。

「明日死ぬつもりで生きなさい。
永遠に生きるつもりで学びなさい。」

たとえ明日死ぬとわかっていても、
自己の成長のために心を砕くのです。

ですから、
死ぬかもしれないと思いながらも、
肉体の健康を維持するために運動をしたり、
食事をしたりするのです。

そういう将来のためのことをやりながらも、
つねに明日死んでも良いように、
今日やるべきことを今日やるのです。

このような生き方においては、
何かに執着するということはありません。

どんな大切なものであっても、
それに執着はしないのです。

大切にするということと、
それに執着するということは違います。

別の言葉で言えば、
大切にするとは愛することです。

執着するとは必要とすることです。

自分には必要ではないけど大切にする。

それが愛するということなのです。

その実例を見てみましょう。

五稜郭に立てこもって
最後の決戦を覚悟した榎本武揚は、
その前日、大事にしていた書籍を
官軍側に渡しました。

その書籍は、
将来の日本のために役立つもの。

そう考えたから、戦火の中で失うことを
善しとしなかったのです。

一方、
織田信長に追い詰められた松永弾正は、
信長から所望されていた
土蜘蛛という名の茶壺を粉砕しました。

自分の死後、
信長の手に渡ることを嫌ったからです。

この話は、ブログに
「チャンスはピンチの顔をしてやってくる」
という記事で書いています。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/312700155.html

物を所有するという考え方は、
執着心の現れです。

自分の物、自分の奥さん、自分の恋人、
自分の子ども・・・。

執着していると、
その対象を生かすことができません。

その対象には、
その対象ならではの生き方があるのです。

榎本武揚が大事にした書籍は、
日本のために生かされることを
望んだのでしょう。

榎本はそう感じたから、
その書籍を所有したのではなく、
愛したのです。

一方の松永弾正は、
名器の土蜘蛛を国の宝として残して
生かそうとはしませんでした。

松永は、
その茶壺を愛したのではなく、
所有しようとしたのです。

必要とせずに大切にする。

縛り付けずに、そのものを生かす。

それが愛するということ。

死があることによって私たちは、
人生がどれほど大切なものかを
理解します。

そして死があることによって私たちは、
本当に愛することを
知ることができるのです。

永遠に所有できるものはありません。

人は死によって、
必ずすべてのものを手放すのです。

ですから穏やかな心で死にゆくとき、
その人は大切にしてきたすべてのものを
愛するのです。

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