終戦記念日に思うこと

終戦記念日に思うこと

こんにちは!
明日、妻の実家へ行くことになった
赤木です。

詳細はブログの方に書いてますので、
そちらもご覧くださいね。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/372063814.html

さて、今日は終戦記念日です。

第二次世界大戦が終わって68年。

戦場を体験したという人は、
おそらく85歳以上の方でしょうから、
限られた人数になってしまいました。

直接的な記憶はなくても、
こういう出来事があったということは、
忘れてはならないと思います。

あの戦争に対する評価は、
人それぞれです。

極端に言えば、
あの戦争を善と考える人もいるし、
悪と考える人もいるということです。

なぜなら、
それを侵略と呼ぼうと何と呼ぼうと、
攻撃はすべて防御だからです。

日本は何かを守ろうとして、
あの戦争に突入したのです。

ですから、
侵略戦争か防衛戦争かなど、
簡単に定義できるものではありません。

しかし、それも1つの見方に過ぎません。

10人いれば、10通りの見方があります。

どれが正しく、どれが間違っている
というものではありませんよ。

そうは言っても、ある見方、つまり
あれば侵略戦争だったという見方から、
68年経っても恨みごとを言う人たちも
います。

はっきり言えば、
韓国と中国の人々の中には、
そう言って日本を責め続けている人が
大勢いるようです。

それに対して日本でも、
「もういい加減にしろ!」とばかりに、
そういう人々に敵意をむき出しにする人も
現れました。

このことは、
お互いにとって不幸なことだと思います。

私は、私たちの先祖が、
野蛮で情け容赦ない極悪人ばかりだった
などとは思いません。

先ほども書いたように、
あれは日本にとっても
国を守るために仕方がないと戦争だった
と考えています。

もちろん、
他にも選択肢はあったはずだし、
勝ち目のない戦争に突入し、
原子爆弾を落とされるまでずるずると
戦争を続けたことは問題だと思います。

しかしそれでも、
そうせざるを得ない事情があったと
感じる人もいたのだし、
それを今の価値観で
責めることはできないと思います。

現代の私たちにできるのは、
現代の価値観で
当時の判断を1つひとつ精査し、
今ならどう考えるかを
検証することだと思います。

過去の人の判断(考え方)を
責める必要はなく、
それを検討材料にして、
より良い未来のために
生かすだけで良いと思うのです。

つまり罪悪感を抱くのではなく、
しっかりと反省するということです。

ただ先ほども書いたように、
それでは反省が足りないと言って、
日本人を責め続けている人もいます。

そういう人たちは、
思想教育によって洗脳されているのだ、
という人もいますね。

おそらく、そういう面もあるのでしょう。

内政問題から国民の目をそらすには、
外に共通の敵を作ることが効果的ですから。

また、
国民性の問題もあるかもしれません。

何でもかんでも日本と比較し、
自分たちが優位でなければ
気がすまないという気性は、
まるで兄に食ってかかる
弟のような感じです。

兄に勝つことによって、
自分の存在価値が明らかとなり、
心が満たされると
感じているのかもしれません。

でも、
そういう人たちと同じ土俵に立って、
負けじと攻撃することは、
自分で自分を貶(おとし)めるようなものだ
と思いますよ。

批判、非難、暴言、暴力は、
程度の差はあっても、
すべて相手を変えようとする行為です。

過去と他人は変えられないと、
ほとんどの人が知っているはずなのに、
本当には理解していないのでしょうね。

それに日本人は、
彼らのことをバカにはできませんよ。

私たち日本人も、
愚かなことをやってきたのです。

最初に特攻隊として死んだ人を、
国民は英雄として讃えました。

しかし敗戦後は、
彼らを戦犯として蔑んだのです。

このことは、
小説「永遠の0(ゼロ)」
を読んで知りました。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/370035995.html

自分たちに危害が及ぶのではないかと
怖れたからでしょうね。

その怖れのために、愚かにも
一度は英雄として讃えた人たちを、
逆に戦犯として責めたのです。

そういうことを平気でやれるのが、
日本人だったということも、
また事実です。

これは、
一般的な国民だけの話ではありません。

大新聞もそうです。

オピニオンリーダーとして、
エリートの使命感から、
世論を誘導したのは彼らです。

もっと強気で諸外国に当たれ、
戦争してでも勝ち取れと、
政治家を責めたのは彼らです。

それが戦後は一転して、
政治家が間違っていたのだと主張して、
当時の政治家を責めました。

自分たちが
間違ったリードをしてしまいましたと
反省した新聞はありません。

人とはこのように、
不安の前には弱い存在なのです。

自分自身を守るためには、
他人を傷つけることを
平気でやってしまう存在です。

けれども私たちは今、
その理屈がわかっています。

当時の人たちは
気づかなかったかもしれませんが、
現代の私たちには、
そういう知識があるのです。

ならばその現代の知識や考え方でもって、
当時の人を裁くのではなく、
私たち自身の考え方や行動を
改めるべきではないでしょうか。

ですから、
私たち日本人を責め続ける人を、
逆に攻撃することはナンセンスなのです。

私たちには、
さらに上を行く知識があるのですから、
もっと自分を成長進化させるべきです。

私たちが成長進化すれば、
他の人たちもそれに続きます。

なぜなら、
人とは成長進化する宿命があるからです。

私たちが突破口を開けば、
私たちが道を作れば、
後から続く人の成長進化が
容易になるのです。

ですから、批判されても、
批判し返す必要はありません。

非難されても、
非難し返す必要はありません。

暴力を振るわれても、
暴力で返す必要はないのです。

私たちは、
私たちの本質である愛を武器に、
立ち上がるべきです。

愛は、相手の自由を喜びます。

愛は、相手が進化成長する存在だと
信じます。

ですから、
相手に特定の価値観を
押し付ける必要性もないし、
相手が変わらないことも許します。

私たちは愛で、
世界を変えるべきだと思うのです。

また日本人には、
世界をひとつにまとめる使命があると
私は感じています。

世界の紛争は、
すべて兄弟による争いと
同じ本質を持っています。

今、世界の問題として象徴的な
イスラム原理主義とアメリカの対立は、
同じユダヤ教を母体とする
兄のキリスト教と弟のイスラム教の
争いではありませんか。

一方、日本には、
天照大神(あまてらすおおみかみ)と
素戔嗚尊(すさのうのみこと)が、
兄弟の争いを乗り越えて
一体となったという神話があります。

優遇された持てる者としての兄、
天照大神と、
冷遇された持たざる者としての弟、
素戔嗚尊は、
骨肉の争いを演じながら、
その元凶となった恨みの思いを乗り越え、
最終的に一体となったのです。

このことは、神渡良平さんの小説、
「天翔ける日本武尊」に描かれています。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/371751692.html

ですから日本には、
世界の兄弟げんかをとりもち、
世界を統一するための知恵が
備わっていると思うのです。

「和をもって尊しとなす」

日本に与えられた「和」の称号は、
まさにそれを示しています。

実際、
白人国家の先進諸国と
有色人種の国家の間に立てるのは、
日本だけではありませんか。

日本だけが唯一、
有色人種の国家でありながら、
白人国家と対等な先進国になったのです。

たしかに中国は大国ですが、内政が大変で、
世界的に指導力を発揮できるほど
成熟していません。

韓国もまだ、
兄である日本のあとをついてきては、
なんだかんだとちょっかいを出す
やんちゃな弟と同じです。

経済的にも進化し、
精神的にも成熟している国は、
日本をおいて他にないのです。

その日本が、
世界に先んじて進化成長することは、
世界のために役立つ道ではないか
と思うのです。

現実には、
暴力を振るわれそうになったときは、
相手に暴力を振るわせないことも
大切です。

相手は、
他人を傷つけることは
自分を傷つけることと同じだと
わかっていないのです。

ですから、相手を守るためにも、
暴力を振るわせてはいけません。

そのために、一時的に応戦する、
つまり暴力を用いることもあるでしょう。

しかし精神的には、
恨みや怒りの感情を持つ必要性は
ありません。

心を愛で満たすだけで良いのです。

これまで、どこの国の人も、
どの民族も成し得なかった成長進化を、
日本人が目指すときです。

そのチャンスが目の前にある。

私は、そう思っています。

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