いつも上手く行っている

いつも上手く行っている

こんにちは!

今朝は妻と一緒にお寺にタンブンに行った
赤木です。

今日は仏教の祭日なので、
会社はお休みになります。

タイは3連休です。

タンブンというのは、
功徳を積むという意味のタイ語です。

方法はいろいろありますが、
お金を喜捨したり、
托鉢僧に食べ物を与えるなどが
タンブンになります。

今朝行ったのは、近くでは有名な
ワット・フアランポーンです。

1~2年前にも行きましたが、
そのときと比べて随分と進化していました。

あらゆるところで、
20バーツ以上の喜捨をするように
書かれていました。

パネルに貼った紙に名前などを書くのは、
日本だと絵馬みたいなものでしょうか。

色のついたろうそくの花があり、
自分が生まれた日の曜日の色の花を買い、
火をつけて水に浮かべるというのも。

極めつけは、餌になる草を買って、
飼われている牛に食べさせるというのも
ありましたね。

ここにはありませんが、
捕まえてきた鳥や魚を買い取って、
放してあげるというタンブンもあります。

わざわざ捕まえて放すのがタンブンなら、
スポーツフィッシングはタンブンなの?
と言いたくなります。

まあそれだけタイ人は、
タンブンに熱心なのです。

多くの人は、自分や家族の幸運を願って、
タンブンをします。

つまりご利益を求めているのですから、
本来の仏教とは違います。

ですが、上座部仏教のタイですが、
それで寺が金儲けしているのも事実です。

私は、何も願いません。

寺社へお参りするときは、
感謝することしかありませんから。

いつも導いていてもらえること、
この世がすべて上手く行っていることに
感謝してきました。

さて今日は、いつも上手く行っている
という話です。

実は昨日、久々にステキな体験をしました。

あれはたしか、
2007年くらいだったと思いますが、
その時依頼の体験です。

2007年の体験は、普通に会社にやってきて、
ふと思ったのです。

「あー、安心していていいんだなぁ。」

すると、その「安心」の感覚が
じわーっと心に広がっていきました。

「あー、もう十分だ。もう何も必要ない。」

そう感じられて、
涙がボロボロとこぼれてきました。

そんな感覚が、
30分くらい続いたでしょうか。

おそらく、私がそう思っているだけで、
実際は10分もなかったかもしれません。

でも、泣いているのを社員に見られたら
恥ずかしいなと思った記憶はあります。

そんなプチ特異体験があったのですが、
それ以来、そんなことはありませんでした。

昨日、久しぶりにそれに近い感覚を
心の中に感じました。

さすがに2回目なので、
涙ボロボロとはいきませんでしたが、
大いなる「安心感」に包まれました。

「いつも上手く行っている」
ということが腹にストンと落ちた
という感覚でした。

今回の件で、私はリストラされたことを、
大変なことになったと思っていました。

しかし、
それはもう変えられない事実だとわかって、
仕方なくですが受け入れることにしました。

そのとき、これは魂が導いたのだと、
自然と思えてきたのです。

魂が導いたのでしたら、
悪いことであるはずがありません。

それを単に私が「悪いこと」だと
考えただけなのです。

私、つまり私の精神は、
将来を見通せるはずもありません。

「人間万事塞翁が馬」の故事にあるように、
何が幸いするかはわからないのです。

わからないのにも関わらず、
わかったようなつもりになって、
「悪いこと」だと決めつけて、
勝手に不安になっている。

それが、現実を受け入れる前の
私自身の姿でした。

しかし、そのことに気づいてみると、
勝手に不安を感じている私が、
とてもバカバカしく思えてきました。

そして、ひょっとしたらこれに限らず、
常にそうだったのではないかと
思えてきたのです。

いつも私はそう言っているのですが、
頭では理解しても、
なかなか腹に落ちないのです。

それがやっと、
腹にストンと落ちた感覚がありました。

もし、常に導かれているとしたら、
どうして「悪いこと」があるでしょう?

一見して、「悪いこと」に見えることは
いくらでもあるでしょう。

しかし、本質的に「悪いこと」などは
何一つ起こり得ないのです。

ちょうど今、読んでいる本にも、
そういうことが書かれていました。

また読み終えたらブログで紹介しますが、
「ニュー・アース」(サンマーク出版)で、
エックハルト・トール氏の本です。

そこに、こう書かれています。

「何が起ころうと気にしない。
これは何を意味するのか?
自分の内面は起こった出来事と調和している、
ということだ。
「何かが起こる」、それはもちろん
そのときどきの状態として現れており、
つねにすでに存在している。
起こった何かとは中身で、いまという時--
時にはこれしかない--の形だ。
その中と調和しているというのは、
起こった出来事との関係に心のなかで
抵抗せずにいるということである。
起こった出来事に善だの悪だのという
レッテルを貼らず、
ただあるがままに受け入れる。
あるがままに受け入れるなら、行動もせず、
人生を変化させようともしないのか?
そうではない。それどころか逆で、
いまという時との内的な調和をベースに
行動するとき、その行動には
「生命」そのものの知性の力が働く。」
(p.216 – 217)

これは、インドの覚者、
J・クリシュナムルティ氏が、
自分の秘密として
「私は何が起ころうと気にしない」
と語ったことを受けて書かれた部分です。

ちょっと長いですが、
繰り返し読んで味わってみてください。

「神との対話」でも、
同様のことが書かれています。

「ものごとを勝手に決めつけるから、
苦しむのだ。
決めつけるのをやめれば、苦痛はなくなる。
決めつけるのはそれまでの経験のせいだ。
ものごとに対する考えは、
過去の考えから生まれる。」
(p.57)

自分が勝手に「悪いこと」と
決めつけているだけなのです。

たとえば、リストラされたということは、
強制的に新しい環境に放り込まれる
ということに過ぎません。

その新しい環境がもっと素晴らしかったら、
誰が「悪いこと」と言うでしょうか?

もちろん、それは保証されていません。

もっと悪い環境に
放り込まれる可能性もあります。

しかし、そのもっと悪い環境というのも、
それによって何かが得られて、
次の発展につながるのかもしれません。

何がどうなるかはわからないのです。

「ニュー・アース」では続けて、
白隠禅師の逸話が紹介されています。

長いので引用しませんが、
白隠禅師は言いがかりをつけられた時、
それを否定したりせず、ただこう言いました。

「ほう、そうか?」

出来事に抵抗しなかったのです。

起こったことは起こったこと。

そこに「良い」も「悪い」も、
「正しい」も「間違い」もない。

ありのままに受け入れて、
そこで自分がどうするかを決める。

なかなか白隠禅師のようにはいきませんが、
一歩近づけたように思います。

起こったことを淡々と受け入れ、
安心していること。

そういう生き方を、
私もしていこうと思います。

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