どんな状況でも好きなことができる

どんな状況でも好きなことができる

こんにちは!

帰省旅行から戻ってきた
赤木 篤(あかき・あつし)です。

旅行のことはまた、
ブログやFacebookに載せますので、
そちらをご覧くださいね。

さて今日は、
帰省中に得た気づきについてです。

母がふと、こんなことを言いました。

「私らのときは戦争中だったから、
やりたいこともできんかったんよ。
戦争はしちゃあいけんねえ。」

まあ戦争を体験した人間としては、
当然とも言える思いでしょうね。

しかし私は、
その母の言葉に反応しました。

そのまま聞き逃してはいけないという声が、
体の中から聞こえてきたような感じです。

「お母ちゃん、それは違うよ。」

何も考えるわけでなく、
ただ「そうじゃない」という思いが
心の底から湧いてきたのです。

私は、こんなことを母に話しました。

たしかに戦争によって、
制限されたことはたくさんあったでしょう。

そして戦争をしてはいけないことには、
私も賛同します。

でも、それを理由にして、
好きなことができなかったというのは、
間違っているのです。

もしその理屈が成り立つなら、
昔の人は、容易にアメリカへ行くことも
できなかったでしょう。

それを、
今の人は自由にアメリカへ行けるけど、
自分たちは行けないから、
好きなことができないと言うのでしょうか?

現代の私たちだってそうです。

容易に火星には行けません。

将来の人は自由に行けるだろうけど、
私たちは行けないから、
好きなことができないのでしょうか?

もしそうなら、すべての人が永遠に、
好きなことができない理由を
見つけることでしょう。

「それと戦争とは違うでしょう?」

そう言いたいかもしれませんが、
同じことなのですよ。

物理的に制限がたくさんある。

そう言いたいかもしれませんが、
では中村久子さんとか、
乙武洋匡さんのように、
肢体が不自由な人はどうでしょう?

それだけの制限がありながら、
好きなことができない人生でしょうか?

おそらくその方々は、
そうは思っていないはずです。

しかし実際には、
私にも不可能なことはあります。

100mを9秒台で走れと言われても、
多分もう無理でしょう。

でも、そういうことは、
私の好きなことではないのです。

やりたいことではないのです。

本当にやりたいことは、どういうことか?

それがよくわかるエピソードが、
雪舟という画家の少年時代の話にあります。

岡山県総社市にある宝福寺という禅寺に
後の雪舟が小僧として預けられました。

しかし少年は、
絵を描いてばかりで経を読みません。

それで住職は怒って、
少年を本堂の柱に縛り付けたのです。

夕方になって住職が本堂を覗くと、
少年の足元に
大きなネズミが動き回っています。

少年がネズミにかじられては大変。

そう思った住職が慌てて駆け寄ると、
そのネズミは雪舟が自分の涙を足につけて
描いたものだとわかったのです。

住職はついに諦め、
少年に絵を描くことを許しました。

絶対に絵なんか描かせない。

こういう状況に追い込まれてもなお、
絵を描くことへの執念を燃やした。

それことが、本当にやりたいこと、
本当に好きなことなのです。

本当に好きなことなら、
多少の障害があったとしても、
何らかの方法を見つけます。

仮に手をもがれれば、足で描くでしょう。

足を失えば、口で描くでしょう。

プロボクサーのモハメド・アリ選手も、
不可能というのはできないことへの
言い訳に過ぎないと言っています。

やらないことを正当化するための
理由付けなのです。

ですから、
それが戦争であろうと何であろうと、
好きなことができない理由を
他者や環境のせいにするのは
間違っているのです。

上杉鷹山公は、
こういう言葉を跡継ぎに遺しています。

「為せば成る 為さねば成らぬ 何ごとも
 成らぬは人の 為さぬなりけり」

厳しく聞こえるかもしれませんが、
このことを受け入れない限り、
自分の人生の主人公にはなれないのです。

でも実際には、
戦争のような悲惨な体験があれば、
めげてしまっても仕方がない
という気持ちも理解できます。

「あなたは、そういう体験がないから、
偉そうなことが言えるんだ。」

もしそう言われたなら、
反論する言葉がありません。

生きていれば、それぞれに
耐え難い苦しみを味わったことでしょう。

ですから、
私が他人の苦しみをすべて理解できる
などとは言えないのです。

けれども、
苦しみを乗り越えるには、
自分が考え方を変えるしか他に
方法がありません。

お釈迦様が、
この世は苦に満ちている(一切皆苦)
と言われ、煩悩を断つことでしか
救われないと言われたのも、
まさにそのことです。

現実を変えることで救われる
という考え方は、間違っているのです。

他者や環境を変えることでは、
一時的に逃れることしかできないのです。

では、どう考えれば良いかというと、
すべてのことを受け入れることです。

すべて自分に関わってくる他者や環境を、
「よし」と認めることなのです。

「でも、こんなにひどいことを、
どうして「よし」と言えるんですか!?」

そう言われそうですけど、
でも、それしかありません。

人間万事塞翁が馬という故事では、
全財産とも言える馬が、
老人のもとから逃げ出しました。

老人は、
一瞬にして全財産を失ったのです。

でも、それがあったからこそ、
その逃げた馬が
数頭の野生馬を連れ帰るという
奇跡が起こったのです。

それによって老人は、
数倍の財産を手に入れました。

近視眼的には悲惨な出来事が、
実は好事の前兆だった。

老人は馬が逃げたとき、
「これが吉兆にならないとも限らない」
と言って、
まったく落ち込まなかったのです。

どんな悲惨な出来事であっても、
それをどう見るかは人それぞれです。

レイプされて一生を棒に振ったような
人生を過ごす人もいれば、
逆に明るく生きる人もいます。

どんな可能性も潰されてはいないのです。

ただ、可能性が潰されたと信じて、
挑戦を諦める人がいるだけなのです。

もう歳だから、
病気で体が動かないから・・・。

すべて言い訳です。

もちろん、
手のない人に「手でつかめ」と言っても、
無理なことは明らかです。

そうではなく、
「手でつかむ」とはどういう意味か
ということを考え、
視点を変えて自分ができる方法を
考えれば良いのです。

目が見えなくて読めないなら、
誰かに読んでもらっても良いでしょう。

何か方法があるのです。

本当に好きなら、本当にやりたいなら、
必ず方法があります。

私たちはゲームを楽しみますが、
容易に勝てるゲームは、
すぐに飽きてしまうでしょう。

難しいほど挑戦しがいがあるし、
達成した時の喜びもまたひとしおです。

プロのゴルフでは、
わざわざ難しい環境を造って、
競技をするではありませんか。

ハードルが高いからこそ感動を与えるし、
その挑戦を楽しめるのです。

人生だって、同じではありませんか?

自分には障害がたくさんある
と感じているなら、それはこの人生で、
難しい課題に挑戦しているのです。

プロ級の人生ゲームに挑戦しているのです。

諦めない限り、終わりにはなりません。

「神との対話」という本では、
人生は変化だと言います。

昔から諸行無常と言われる通りです。

でも、ただの変化ではありません。

良い方向への変化だと言います。

なぜなら、生命つまり神は、
進化成長しようとしているからです。

熱力学第二法則(エントロピーの法則)
に反して、生き物が進化してきたのは、
まさに生命が進化成長しているからです。

偶然にそうなったわけではありません。

偶然なら退化するのが、
熱力学第二法則ですから。

ですから、どんな悲惨な出来事や
環境があったとしても、
それは福音なのです。

厳しい冬であればあるほど、
春のめぐみに感動するのです。

夜明け前ほど暗いものなのです。

だから、
もっと人生を信じて、
素晴らしい存在である自分自身を信じて、
生きてほしいと思うのです。

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