いつまで地獄をさまよいますか?

いつまで地獄をさまよいますか?

こんにちは!

子どものころ、
四つ葉のクローバー集めに夢中になり、
よく家の門限に遅れていた
赤木篤(あかき・あつし)です。

小学校の頃の門限は、
夕方の6時でしたからね。

冬ならもう暗いから帰るのですが、
夏場はまだ明るいので、
ついつい遅れてしまいます。

そんなにも熱中して遊んでいた頃が
懐かしいです。

さて、今回は見方についてです。

昨日、2020年の東京オリンピックが
決定しました。

個人的には、
イスタンブールもいいかなと
思っていましたが、
東京と決まると嬉しいですね。

やはり私は日本人なのだと思います。

予想通り、
さっそくお隣の国の方々からは、
批判的なメッセージが発信されたようです。

まだ富士山の爆発があるから
開催地が変更されるに違いないとか。

それに対して日本人からも、
「それならボイコットしてください」
というような反論があったようです。

こういうのを聞くと、
せっかくのお祝いに水をさされたようで、
とても残念な気になります。

それは、
日本の喜びを認めてもらえない
ことに対してでもありますが、
「それなら来るな」というような
狭量さに対してでもあります。

先日、私の身近なところでも、
そういう出来事がありました。

新聞に、
スマートフォンの販売状況が載っていて、
それを見ると、
ほとんどがAndroid端末だったのです。

あれほど騒がれているiPhoneのシェアが
30%もなかったことが驚きでした。

Android端末の中では、
Galaxy(サムスン)のシェアが大きく、
世界的なシェアNo.1はサムスンでした。

富裕層は高くてもiPhone、
低所得者層は安いからAndroid端末
というように、
購買層がわかれているのだとか。

日本では、
安いスマホとしてのAndroid端末という
選択肢がないためか、
iPhoneが圧倒的に強いようです。

その記事の話題を出したところ、
知人から唐突に言われました。

「今どきサムスンの携帯なんか持ってたら、
非国民だと言われますよ。
そんなもの買うんじゃないですよ。」

言われた瞬間、
刺のある言葉だなあと感じて、
私は黙ってしまいました。

その人は、
私がGalaxyを持っているのを
知っているのです。

それで本当は、
「そんなもの買うんじゃないよ!」
と罵(ののし)りたかったのを、
それでも言葉だけは抑えて、
「です」を入れたのでしょう。

ですから口調も文も、
何となくおかしいのです。

おそらく今、日本では、
こんなことが日常的に
起こっているのではないかと思います。

韓国旅行をしたとか、
K-POPのファンだとか、
それだけで非国民だと罵られる。

「だってあいつらが悪いんじゃないか!」

おそらく、そう主張するのでしょう。

自分は正しい。
間違っているのはあいつらだ。

だから、
あいつらは責められて当然だし、
あいつらの肩を持つ奴らは、
自分たちの敵と同じだ。

その気持はわかります。

私自身、
理屈では負けない自負がありますから。

島根県出身ですし、
竹島の問題も念入りに調べてみました。

従軍慰安婦の問題、強制労働の問題、
戦後補償の問題なども同様です。

理屈で言ったら、
日本側の主張が正しい。

それは私の正直な気持ちです。

けれどもいつも言うように、
価値観や考え方は人それぞれなのです。

その人の価値観にしたがえば、
その人の行動は正しいのです。

そして、
他人を変えることはできません。

否定された相手は、
なお意固地になって
自説を通そうとするでしょう。

自分が正しいと信じているのですから、
譲るわけがありませんよ。

私はもう、
こういった言い合いは嫌なのです。

そういう言い合いをしているとき、
心が楽しくないのです。

つまり、幸せを感じられません。

それではどうすれば良いのか?

「あいつらが悪い」と考える人は、
相手を変えようとします。

最初は理屈で、
こうしろと命令するでしょう。

そしてそれに従わない相手を責め、
罵り、バカにします。

ヘイトスピーチ、暴力と、
エスカレートするしかありません。

相手の不幸を喜び、
「せいせいする」などと
言ってみたりもします。

でもそれで、本当に楽しいですか?

おそらく何割かの人は、
それでも開き直って、
「楽しいさ」などとうそぶくでしょう。

それに対して私は、
反論するつもりはありません。

自分がどう感じるかは、
その人にしかわかりませんから。

それに、
その人がそれで良いと決めたものを、
そうじゃないなどと言っても、
まったく意味のないことです。

「それが良いと思われるのでしたら、
どうぞそう思ってください。」

「自分が思いたいように思った。
ですから、幸せで良かったですね。」

私としては、
そう言うくらいなものです。

でも私は、
そういう状態を幸せとは感じません。

それが私の真実です。

誰が何と非難しようと、
私の真実は私のものです。

他人を変えることはできないのですから、
自分が変わるしかありません。

それは自分の見方を変えることです。

視点を変えてみることです。

たとえば、
なぜこういう出来事が起こっているか、
ということを考えてみましょう。

「そもそも反日教育によって
洗脳しているのが原因だ。」

そういう考え方もあるでしょう。

でも、原因を他者に置く限り、
それを変えることはできません。

では他に、
どういった見方があるでしょうか。

私はよく、
出来事はすべて必然で無駄がない、
と言います。

こういう視点で見るなら、
日本に対して反感を抱く人たちが
存在するということも、
必然で無駄がないと考えられます。

つまり、
自分にとって役立つということです。

たとえば、もしそういう人たちが
いなかったどうでしょう?

私たちはついつい、
自分に対して甘くなって、
傲慢になってしまわないでしょうか?

タイで暮らしていると、
いろいろな日本人と出会います。

その中には、
鼻持ちならないほど傲慢な人が
けっこういます。

「オレは客だぜ。金を払うんだから、
それなりのサービスを受ける権利がある。」

日本よりもはるかに安い
サービス料金にも関わらず、
日本の常識を持ち込もうとします。

何を隠そう、以前の私のことです。

もし、
反感を表に出してくれなければ、
反感をいだかれていることすら
気づかないでしょう。

そしてお山の大将になって、
他人の痛みに気がつかないような、
心の寂しい人間になってしまいます。

そうならないように、
身を挺して換言してくれているのが、
その反感を示してくれた人だ。

そうとも考えられますよね。

他人の悪いところが見えたなら、
自分がそうならないよう
気をつければ良いのです。

何も無理に
相手を変える必要はありません。

「教えてくれてありがとう。」

そう言って、
心から手放せば良いのです。

そういう意味では、
ホ・オポノポノのクリーニングも、
同様のことをしているのですね。

自分が幸せでいたいなら、
相手が変わるのを待つ必要はありません。

さっさと自分が変わって、
幸せになっちゃえば良いのです。

それとも、
いつまでも相手が変わるのを
イライラして待ちながら、
地獄をさまよい続けたいのでしょうか?

それもまた、
面白い人生ではありますけどね。

それを面白いと感じるようになれば、
すぐにそこから抜け出せるでしょう。

なぜならそういう人は、
人生が自由だということに
気づいているからです。

どんな存在であるのか、
自分の在り方を決めるのは自分。

それがわかれば、
地獄をさまようのも、天国で暮らすのも、
自由に決められるのです。

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