考え方は人それぞれ

考え方は人それぞれ

こんにちは!
最近、順調に体重が落ちている
赤木です。

病気じゃありませんよ。

ダイエットと言うか、
肉類を食べないようにした
影響だと思います。

完全には難しいので、
なるべく塊肉を食べないよう
努力しています。

ブログにも書きましたが、
中村天風氏の本を読んだ影響です。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/371664951.html

もし、これで体調が良くなるなら、
続けようと考えています。

さて今日は、
「考え方」とか「価値観」について
お話したいと思います。

私は常々、
「考え方は人それぞれ」
と言っています。

これに対して、
総論賛成各論反対という人が、
けっこういらっしゃいますね。

「そりゃたしかに、人は個性があるから、
考え方は違うでしょ。」

「でも、変えちゃならないことも
あるんじゃないの?」

こういう感じで、
例外を設けたいようです。

その最たるものが、
マナーとか礼儀など、
道徳的なもの、倫理的なもののようです。

つまり、善悪の価値観は、
全員が同じであるはずだし、
同じであるべきだと言うのです。

「善悪の価値観がバラバラだったら、
社会がまとまらないじゃないの。」

「犯罪を正しいことだとでも言うの!?」

そう言いたい気持ちはわかります。

私も、どちらかと言えば、
そういう考え方でした。

ルールを守らないヤツが悪いと考え、
そういう人は制裁を受けて当然だと
思っていたのです。

神がいるなら、
どうして悪人をのさばらせておくのかと、
本気で腹が立ったものです。

でも、そういう考え方をしていたとき、
私はストレスの塊でした。

他人のやることなすことが気に入らない。

「道路は右側を歩けよ!
なんでぶつかってくるんだよー!?」

悪いのは他人。自分は正しい。

ゴルゴ13じゃありませんが、
鋭い目つきで、憮然としていたものです。

「オレの後に立つんじゃねー!!!」

駅のホームで並んでいて、
ちょっとでも背中を触られようものなら、
そんな風に思ってました。(笑)

でも、よくよく考えてみれば、
誰にもそれぞれ、
そうせざるを得ない理由があるのです。

それを自己正当化と呼ぶこともできますが、
その人にとっては立派な理由なのです。

たとえば人混みで誰かが
ぶつかってきたとしましょう。

ぶつかってくる方が悪いんです。

そうですよね?

でもその人は、
こう言うかもしれません。

「あなただって目がついてるんでしょ?
ちょっとくらい避けたらいいじゃないの。」

「こっちは急いでいるんだからさー。
ちんたら歩いてるんじゃないわよ。」

あるいは、
こう言い訳をするかもしれません。

「悪気はなかったんだけど、
最近眠れなくて、イライラしてたのよ。」

「私がこっちを歩いているのに、
無視して避けようとしないから、
頭にきてついぶつかっちゃったの。」

こういうように、
そうするにはそうするだけの、
その人なりの理由があるのです。

つまりその人にとっては、
それは間違った行為ではないのですよ。

その人の価値観においては、
そうすることは正しいのです。

昔の人はこう言いました。

「盗人にも三分の理」

たとえ泥棒でも、
盗まざるをえない理由があるのです。

「こんな不景気じゃ、
オレみたいな能無しは、
盗みでもしなきゃ食っていけないだろ。」

「それとも何か!?
あんたがオレを食わせてくれるのかい!?」

「悪いことして儲けたヤツから、
ちょっとだけいただいているだけさ。」

では、殺人はどうでしょうか?

さすがに人を殺すことは、
どんな理由があっても、
誰もが悪いと考えるに違いない。

そう思われますか?

ところが、そうではないことを、
現実が示しています。

現代でもインドなどに、
名誉殺人という考え方があるそうです。

家族の一員、特に女性ですが、
その人が家族の名誉を汚したとき、
その人を殺して汚名をすすぐのです。

結婚前の娘が、誰かとセックスした。

それがたとえレイブであったとしても、
その家族にとっては不名誉なこと。

だから殺す。

その殺人が正当であると考える
大勢の人がいるのです。

中世のヨーロッパでは、
魔女狩りが正しい行いとされてました。

何の罪もない女性が、
魔女だと指摘されただけで、
耐え難い拷問を受けることになります。

拷問によって死ぬこともあるし、
耐えられずに魔女だと言うと、
やはり殺されるのです。

しかも火あぶりで。

十字軍では、
異教徒であるイスラム教徒を
駆逐することが神の意志だとされ、
略奪やレイプが堂々と行われました。

神が認めた正義の戦いです。

戦利品として、男は奴隷に、
女は性奴隷にされることもありました。

神が褒美としてくださったもの。

彼らは、そう考えたのです。

戦争とか紛争では、
現代でもそうではありませんか。

アメリカなどがテロと呼ぶ
イスラム過激派による殺人は、
彼らにとっては聖戦です。

聖戦によって死ぬことほど、
名誉なことはありません。

これは正義の戦いなのです。

また、
死刑という合法的な殺人もあります。

その社会が重い犯罪だと認定した場合、
その犯罪者を殺すことが合法なのです。

「悪いことをしたんだから、
当然じゃないか。」

そう思われますか?

その悪いこととは、
結婚していない男女が
セックスすることですか?

石打ちの刑によって殺されます。

「そんなの、特殊な例だよ。
文明社会ではあり得ないよ。」

そう言って
自分の説を擁護したいかもしれませんが、
それ自体がもう詭弁です。

文明社会とは何ですか?

そういうことでは死刑にしない社会を、
文明社会と呼ぶだけではありませんか?

そういう死刑制度を採用している
社会の人からすれば、
自分たちこそが文明なのです。

また日本は死刑制度を維持していますが、
すでにそれを廃止した社会からすれば、
日本は野蛮な国です。

とても文明国とは言えない。

彼らはそう思うでしょう。

どこに、人を殺すことは悪いという、
共通的な価値観があるのでしょう?

このように、この世の実態を見れば、
考え方や価値観は人それぞれ違う、
という事実が示されています。

そもそも異なっているのです。

何を善いと言い、何を悪いと言うか。

それは、人それぞれなのです。

それが好きか嫌いかに関係なく、
そうなのですよ。

その事実を、
まずは受け入れることが重要だと
私は思います。

あなたと私は、
考え方や価値観が違います。

それが事実です。

そうなると次に、
「それでいいのか?」
という問題が出てきます。

考え方や価値観が違うから、
様々な問題が出てくるのではないか、
とも考えられるからです。

これについては長くなったので、
また次回にお話します。

العربية简体中文EnglishFrançaisDeutsch日本語PortuguêsEspañolไทย