子どもの父親を公表しないといけないの?

子どもの父親を公表しないといけないの?

こんにちは!
毎日3時間は本を読んでいる
赤木です。

後先考えずに欲しい本を買ってしまい、
読んでも読んでも、未読の本が減りません。

今は手元に20冊の未読の本がありますが、
日本にまだ10冊あるんですよね。(泣)

頑張って、いや楽しんで読みますよ。

さて、今日Yahoo!ニュースを見ていたら、
また面白い記事がありました。

「誹謗中傷、執拗な取材……
“出産告白”の安藤美姫サイドが困惑」

http://goo.gl/Wpdbw

アイススケーターの安藤美姫さんが、
未婚で出産したことに関する報道です。

前の女性弁護士のときもそうでしたが、
コメントに書かれた意見は、
安藤さんに批判的なものが多いですね。

最近、自己責任の話題があったせいか、
「自業自得」というものが目立ちます。

予想できたことだし、
メディアを利用したのだから、
不利益も受け入れるべきだと。

たまに、誹謗中傷ばかりのコメントに、
あきれたと書く人もいますけどね。

それにしても、
どうしてそっとしておけないのでしょうね?

マスコミもそうですが、
マスコミがそうやって追いかけるのは、
読者や視聴者が気にしているからです。

本人が言わないと言っているのですから、
放っておいてあげれば良いのに。

それができないのは、
好奇心が強いからではありません。

自分が幸せでないからです。

自分が満足していないから、
他人の幸せが許せないのです。

いわゆる妬(ねた)みとか、
嫉(そね)みと言われるもの。

嫉妬(しっと)心が強いのです。

また、
「他人の不幸は蜜の味」とも言いますが、
他人の失敗や不幸を好むのも、
やはり自分が幸せではないからです。

自分と同じか、それ以下にまで
他人を引きずり落とすことで、
相対的に自分を高めようとするのです。

「あいつ、偉そうにしてるけど、
実は◯◯なんだってさあ。」

こういう暴露話も、
相手の評価を下げることで、
自分を相対的に上げようとする試みです。

しかし、そういった試みはすべて、
自分自身の評価を落とすだけです。

そのことは、
もうほとんどの人が知っているでしょう。

だから「マスゴミ」などと言って、
そういうどうでも良い情報を流すマスコミを
揶揄(やゆ)したりもするのです。

マスコミの人は、
「自分たちは大衆の期待に
応えようとしているだけだ」と、
まじめに考えている人もいます。

つまり、
大衆の要望に応えることによって、
人々にささやかな幸せを
もたらそうとしているのだと。

だから自分たちの行いは正義であり、
評価されるべきことだと考えています。

果たしてそうでしょうか?

たしかに、大衆が期待していることは
間違いありません。

ですから、
お金を払ってでも知りたいと思うのです。

けれども、
それで人々が幸せになるでしょうか?

一時的に満足することは事実でしょう。

けれども、
喉の渇きが癒えることはありません。

「もっともっと」と他人の不幸を欲しがり、
幸せな人を引きずり落としたくなるのです。

そういう人々に対して、
要求されるものを与え続けるのは、
アルコール中毒患者にお酒を与えるのと
同じ行為だと思います。

中毒患者、つまり
何かに依存している人を助けるには、
その依存対象からその人を、
引き離さなくてはなりません。

それが本当の意味で、
人を幸せにすることではないでしょうか?

そうでないと言うなら、
法律は置いといても、ヤク中患者に
麻薬や覚せい剤を提供することは、
良いことだということになるでしょう。

「だって、
相手が欲しがっているんだから。」

売れれば何でも良いのでしょうか?

お金が手に入るなら、
何をしても良いのでしょうか?

それと同じことが、
一人ひとりに対して言えます。

「だって知りたいんだもの。」

興味を満たせれば、
それによって他の人がどうなっても
良いのでしょうか?

自分が満足するなら、
他の人を不幸にしても良いのでしょうか?

理由はどうにでも付けられます。

価値観は人それぞれであり、
その人にとっては、それが正しいのです。

「だって、あいつが悪いんじゃないか。
結婚もせずに出産したんだぜ。
それで父親の名前も言えないって、
後ろめたいことがあるからだよ。」

それが正しいかどうか、
決めるのは自分自身です。

ですから、正しいかどうかを論じ合っても、
あまり意味はありません。

問題は、
それが本来の目的に役立つかどうか。

その選択によって、
目的が達成できるかどうかが重要なのです。

私たちが何かを選択するのは、
それによって自分を表現するためです。

つまり、自分自身を創るためです。

その目的に対してふさわしいかどうかが、
選択基準となるべきでしょう。

ですから何かを選択したとき、
それが自分らしいかどうかを感じ、
自分らしくないなら改めるべきなのです。

それが、
自分らしく生きるということですから。

しかし多くの人は、
自分が選んだことに固執してしまいます。

間違いだったと認めることが
不安だからです。

そこで選択を正当化しようとして、
自分自身にウソをつきます。

そうやって徐々に、
本当の自分から離れていくのです。

いずれにせよ、
何かを選択することによって、
自分とは何かということを
表現することになります。

そしてその表現によって、
自分の人生が創造されます。

自業自得だと言って
誰かを責めるときのあなたは、
本当にあなたらしいあなたでしょうか?

そういう自分を外から眺めたとき、
美しいと感じますか?

今、あなたのその選択が、
未来のあなたを創造したのです。

人生とは自分という人間を、
一生かけて彫り上げていくようなものです。

あなたは、
どんな自分を創りたいのでしょう?

あなたは今、
その選択をしているのです。

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