ある考え方が私を救ってくれました(後編)

ある考え方が私を救ってくれました(後編)

こんにちは!
2月になって潮目が変わったと感じている
赤木です。

さて、昨日の続きです。

昨日のメルマガでは、
私の会社で起こった出来事をお話しました。

信頼していたマネージャーが
急に辞めると言い出して、
それにショックを受けたという話です。

「そんなの大したことないよ。」

そう思われる方もおられるでしょう。

この話をどう受け止められるかは、
読まれた方それぞれだと思います。

私は、この話が
みなさんの役にたつと思い、
そうなることを願っています。

ですが、
そうならないこともあります。

それは、この話をどう受け止めるか、
みなさん次第だからです。

それについて、私は関与できませんし、
関与するつもりもありません。

冷たく感じられるかもしれませんが、
それが自由というものですから。

私はただ、私についての真実を、
包み隠さず語ろうと思うだけなのです。

と言うことで、本日は、
そういうショックを受けながら、
今は平然としていられる理由を
明かすことにします。

その理由とは、
いつも言っていることですが、
視点を変えたのです。

ショックを受けたのは、
私が否定されたように感じたからです。

私の視点でこの出来事を捉えたのです。

また、
将来に対する不安も沸き起こりました。

まだ来ない未来を、
「予想通りに行かない=悪くなる」
という視点で考えたからです。

これらのことを、
別の視点で眺めてみることにしました。

まず、私が否定されたとか、
私が悪いという見方を変えました。

罪悪感を放棄したのです。

マネージャーの立場に立ってみれば、
その人の言い分もわかります。

誰でも、自分が苦手なことは
やりたくないものです。

いくら「やればできる」と言われたって、
苦手だと感じているのですから。

私はマネージャーに
ひと回り大きくなってもらいたかったし、
今の会社の状況からすると、
少し頑張ってほしい、
つまり無理してほしいと思ったのです。

いつも理由を説明し、
ただ「やれ!」というような言い方は
けしてしなかったつもりです。

それでも強制されていると、
感じる人はいるのでしょう。

また、こういう見方もできます。

私は十分に優しく話していると
思っていたのですが、
ひょっとしたら、そうでない部分が
あったのかもしれません。

もし、耐性のある人だったら、
それを何とも感じなかったでしょう。

けれども敏感な人は、
それを感じてしまうものです。

そのとき、
耐性がないことを批判するのではなく、
耐性がないからこそ敏感に反応することで、
それを教えてくれたとも言えるわけです。

「ニンジンの奇跡」という本があります。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/311390673.html

その中でアトピーの人のことを、
人類に警鐘を鳴らしてくれる天使である
というように書いてありました。

身体が弱いダメな人ではなく、
私たちに「これは食べてはいけない」と
教えてくれる素晴らしい存在なのだと。

しかも、自らの身体を痛めつけることで
教えてくれています。

そんなことをするのは、
菩薩か天使くらいなものでしょう。

それと同じことだなあと思ったのです。

私に、
「まだまだ成長する余地があるよ」と、
自らを苦しめながら教えてくれたのです。

そう思ったら、
ありがたいことだなあと思えてきました。

また、会社の経営に関しても、
別の見方ができます。

有能なマネージャーに辞められる。

そのことで、これまでの体制が
崩壊するかのように感じました。

でもこれも、ひょっとしたら悪くないかも
と思えてきたのです。

と言うのは、
マネージャーは実働要員ではないので、
直接的には売上に貢献していないのです。

したがって、すぐに売上に影響はせず、
しかもコスト削減になるわけです。

ですから、
新たな体制をうまく構築できれば、
その穴を埋めるばかりか、
今まで以上に素晴らしい体制に移行できる
チャンスでもあるのです。

「人間万事塞翁が馬」でも、
大切な財産でもある馬が逃げたとき、
持ち主の翁(おきな)がこう言いました。

「なあに、このことが
幸いの兆しにならないとも限らないさ。」

http://4awasejsn.seesaa.net/article/287874552.html

まだ確定していない未来のことを、
悪い方にばかり考えるのは、
正しい見方とは言えません。

もちろん、悪くなる可能性もあります。

しかし、変化は必ず起こるのですから、
変化させないことはできません。

その変化が良くなるように
コントロールできれば良いのです。

それには、思考、言葉、行動といった
創造のツールを使うしかありません。

そういう意味でも、
ネガティブに考えていては、
何の役にも立たないことがわかります。

そしてもう1つ、
これまた私がいつも言うように、
必要性を減らすことです。

たとえば、
この出来事がきっかけで会社が倒産し、
路頭に迷うことになったら、
どうなるのでしょうか?

まず、私が悪いと
非難されるかもしれません。

けれども、人は人、自分は自分です。

他人の批判や非難を、
そのまま受け入れる必要はありません。

私が尊敬する勝海舟氏も、
福沢諭吉氏の批判にそう言っています。

「行蔵(こうぞう)は我に存す。
毀誉(きよ)は他人の主張。
我に与らず、
我に関せずと存候(ぞんじそうろう)。」

罪悪感を受け入れる必要はありません。

私はそのときの私なりに、
最善を尽くしました。

それは失敗ではなく、成功の途上なのです。

意気消沈する必要性はないのです。

でも、生活が困るかもしれません。

今までのような給料が
もらえなくなりますから。

それとて、
今までのような生活を続けようとするから、
困ったと感じるだけです。

風呂もなく、トイレも共同というアパートで
生活したこともあります。

いざとなれば、
そういう生活に戻るだけのこと。

でもそうなったら、
妻が離れていくでしょうか?

そうなるかもしれませんね。

ただ、
それはいつでも同じだと思うのです。

決めるのは妻自身ですから。

私はいつでも、
妻を縛り付けるつもりはありません。

私に嫌気が差して離れていくなら、
それもまた妻の自由です。

私は、そういう妻を愛します。

妻が何かをしてくれるから
愛するのではないのです。

ただ私が私らしくあるために
妻を愛するのですから。

そう考えたら、
仮に会社が倒産して路頭に迷ったとしても、
何が困ることがあるでしょうか?

健康であるなら、
何らかの仕事に就くことも可能でしょう。

今までのような給料がもらえないとしても、
生活できないわけではないのです。

仮に健康を害して、
働けなくなったらどうでしょうか?

もう踏んだり蹴ったりですね。(笑)

働けないからお金もないし、
お金がなければ食べる物も買えません。

でもね、
それでも生きている人は何人もいますよ。

路上生活者とか。

幸いなことにタイは、
温暖なので住むところや着る服がなくても、
凍えて死ぬことはありません。

お寺へ行けば、
少しくらい食べ物ももらえるでしょう。

日本へ戻れば、
生活保護だってありますしね。

日本は、本当に良い国ですね。

また、島根の実家もあるので、
再び親の世話になることもできるでしょう。

惨めですか?

それは、自分が惨めだと思うからです。

「なあに、このことが
幸いの兆しにならないとも限らないさ。」

そう思っていれば、
希望を失うことはないでしょう。

「何とかなる。
生きていさえすれば何とかなるって。」

NHKのドラマ「開拓者たち」で、
主人公のハルが
口癖のように言っていたセリフです。

どんな困難も、
過ぎ去らないものはありません。

生命とは変化なのですから。

「冬来たりなば春遠からじ」

自分が自分を見捨てない限り、
自分が見捨てられることはないのです。

このように視点を変えることで、
私は考え方が変わりました。

考え方が変われば、
そこから沸き起こる感情も変わります。

「大丈夫。何とかやれそうだ。」

今の私には、
そういう希望が胸の中にあるのです。

そして、こういう体験ができたことを、
心からありがたいと思うのです。

العربية简体中文EnglishFrançaisDeutsch日本語PortuguêsEspañolไทย