自分では何も決めないという生き方もあります(18禁)

自分では何も決めないという生き方もあります(18禁)

こんにちは!
久しぶりに近郊を観光旅行した
赤木です。

詳しくはブログをご覧ください。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/314565698.html

さて前回まで、
子どもの性的な表現について話をしました。

特に小さいお子さんをお持ちの方は、
「なんておぞましいことを言うんだ!」
と思われたかもしれませんね。

たしかに、おぞましいこでしょう。

今まで多くの人が疑問に思いながら、
口を閉ざしていたことですから。

私はそのタブーをなくすことが、
人々を解放して自由にすることだと
思っています。

ですから、敢えてこのタブーに挑戦します。

ただ、人はそれぞれ自由です。

どう考えるかは、
その人が決めることだと思います。

ですから、
私と異なる考え方の人がおられても、
私は批判も非難もしません。

人は、自分が変わろうと決めた時しか
変わりませんから。

それに、
強制することは何の意味もないことだ
と思うからです。

ただ、質問は投げかけます。

答えるかどうかは自由ですが、
できれば答えてほしいと思います。

つまり、
考えてみてほしいという希望です。

たとえば、
無人島に2組の家族がいたとしましょう。

1組は、
あなたがた夫婦とその息子(娘)です。

そしてもう1組も、
別の夫婦とその娘(息子)です。

他に誰もいないし、
文化的な何かを知らせてくれるような
メディアのようなものもありません。

2人の子どもは、
いつも仲良く遊んでいます。

あるとき2人は、自然とお互いの違いに
興味を持つようになるでしょう。

「ねえ、どんなふうになってるの?」

互いに、性器の違いに興味を抱き、
その違いを知りたいと思うでしょう。

そんな子どもの様子を知ったあなたは、
子どもに何と言うのですか?

「そんな状況はあり得ないよ。」

極論とわかっていて書いています。

前にも言ったように、
問題点を浮き上がらせるためです。

でも、誰かが子どもに知らせるとしたら、
仮にそれが自分でないとしても、
どういう知らせ方をするのが良いと
思われるのでしょうか?

「そこは大事なところだから、
他の人に見せちゃダメよ。」

子どもは、
大事なものは隠さなくてはならないのだと、
学習するかもしれません。

でも、
どうして隠さなければいけないのか、
それがわかりません。

勇気を出して、
あなたに質問するかもしれません。

「ねえ、どうして
隠さなければいけないの?」

あなたは、どう答えるのでしょうか?

また、どんな態度を示すのでしょうか?

それによって子どもに、愛する子どもに、
どんなメッセージを伝えるのでしょう?

あなたが恥ずかしがれば、
性器を見せるのは恥ずかしいこと、
という価値観が伝わるかもしれません。

言葉にすることもはばかられるものと、
子どもは理解するかもしれません。

そんな恥ずかしいものを持っている自分。

それはいったい、
どんな存在なのだと思うでしょうね。

ある日、自分の性器に触れたとき、
気持ち良さを感じるかもしれません。

「ほら、こうしたら気持ちいいよ。」

子ども同士で教え合うかもしれません。

それを知ったあなたは、
どんな言葉を子どもに
かけてあげるのでしょう?

「そんなことやめなさい。
頭が悪くなるわよ!」

「いやらしい!
そんなことするもんじゃないの。」

性器を触って気持ちよくなることは、
忌み嫌われるほど悪いことなのだと、
子どもは感じるかもしれません。

そういった価値観を
子どもに植えつけることが、
あなたの望みなのでしょうか?

子どもにいやらしいことだと言った以上、
夫婦の営みを子どもに
感づかれるわけにはいきません。

こそこそと、子どもに知られないように
夫婦はセックスをするのでしょう。

でも、運悪く
見つかってしまうこともあるでしょう。

親が必死で隠していたこと。

それを垣間見た子どもは、
どう感じるでしょうか?

「いやらしい。」

自分の親を蔑むかもしれません。

だって、
自分たちがいやらしいと言っていた
(思っていた)ことを、
隠れてこそこそとやっているのですから。

私たちは、
子どもたちのことを本当に
真剣に考えているでしょうか?

「そんなことはいつか
自然とわかることだ。」

そう言って、
他人任せにしているのではないでしょうか?

重要なことではないのですか?

重要なことだとするなら、
どうして他人任せにするのでしょう?

残念ながら、究極の世界の無人島では、
親以外に教えてくれるものはありません。

犬などの人間に近い動物でもいれば、
その交尾を見て、見よう見まねで
セックスしてみるかもしれませんけどね。

そうでもなければ、セックスの仕方さえ
わからない人間になるのです。

そして悪いことに、性器やセックスは、
恥ずべきことという価値観まで持たされる。

そんな恥ずべきことが大好きな自分を、
子どもはどうして愛せるでしょうか?

自分を、罪深い無価値な存在だと考え、
自己卑下するかもしれません。

あるいは、特に女性の場合だと、
性欲が強い男性に対して不信感を抱き、
男性を汚らわしいと
考えるようになるかもしれません。

愛する自分の子どもが、
そういう大人に育つことが
あなたの望みでしょうか?

今の社会では、性の情報は主に
インターネットや雑誌などの媒体から
入ってきます。

それらの情報のほとんどは、
興味本位か、
性欲につけ込んだ商売目当てです。

子どもたちは、そういうもので
性に関する情報を得れば良いと、
あなたは考えているのでしょうか?

決めるのは、人それぞれです。

自分で自分の生き方を決めるのです。

子どもに何をどうやって教えるのか?

それを決めることでも、
人はその人らしさを表現します。

中には決められずに、
何もしない人もいます。

自分には能力がないと言い訳して、
他の誰かが決めてくれるのを待つのです。

けれどそれもまた、
「何も決めない」ということを
決めたことになります。

つまり、
何かを決めることはもちろん、
決めないこともまた、
自分らしさの表現なのです。

そうして私たちは常に、
「自分とは何ものか?」という問に
答を出しながら生きています。

と言うより、
生きるとはそういうことなのです。

私たちがそうやって出した答が、
私たち自身の表現であり、
その表現によって、
私たち自身の人生を創造しています。

つまりそれは、
私たちの考えが出来事を引き寄せている
と言うことです。

「子どもは黙って
親の言うことを聞いていればいい。」

そう言って自由を与えないことが、
自分らしいことでしょうか?

「誰かから教わるから、
無理に自分が教える必要はない。」

そう言って教えることを拒否し、
恥ずかしさを植え付けることが、
自分らしいことでしょうか?

必要性にとらわれていると、
これらの質問は厳しいと
感じるかもしれません。

自分が責められていると
感じるかもしれません。

けれども、そうではないのです。

これは、
自分の人生を自分で決められる
という福音なのです。

今まで見ないようにしてきたこと、
考えないようにしてきたこと、
それらの中に、
大事なことがあると思うのです。

どうして目をつぶってきたのか、
どうして考えるのをやめたのか、
その答の中に、
自分を取り戻す道があると思うのです。

ですから私は、疎まれようとも、
この質問をやめません。

「あなたは愛する子どもたちに、
何を伝えたいのですか?」

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