なぜ人は未熟に生まれるのか?

なぜ人は未熟に生まれるのか?

こんにちは!

妻へのクリスマス・プレゼントに
頭を悩ませている
赤木です。

もうすぐクリスマスですから、
何か考えないとなあ…。

そう思っているのですが、
良い知恵が浮かびません。

ローソンのクリスマス関連商品を見て、
それでもいいかって思っちゃったから。

一度思い込むと、
なかなか次のアイデアが出てこないですね。

さて今日は、
人が未熟に生まれてくる理由についてです。

以前ブログに、
「人はなぜ立つこともできない赤ん坊として
生まれるのか?」という記事を書きました。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/299623061.html

これは他の動物との対比で、
より未熟に生まれてくるという事実から、
人が生きる目的を考えたものです。

つまり、
「体験することが生きる目的だから」
ということです。

体験して、失敗しながら進化成長する。

それが目的なのですね。

人の目的が進化成長することだというのは、
実は「神との対話」で知ったことです。

この説明を読んだ時、
私はすぐには理解できませんでした。

「神との対話」では、
「この世は学校ではない」と言います。

なぜなら、
私たちはすべてを知っているから。

だから何も学ぶ必要はないのです。

ただこの世では、
「知っていることを思い出せばよい」
と言います。

これまで多くの人が、
この世の人生は修行だとか、
この世は魂の学校などと言っていました。

それをさも当然のように、
「違う」と断定したのです。

では、この世は何かと言うと、
知っていることを思い出して、
それを体験する場なのだと言います。

しかし続けてこういう話になります。

知らないことは体験できない。
でも体験しないとわからない。

これでは堂々巡りです。

では、どうすれば思い出せるのでしょう?

その問に神は、
「まず、静かにすることだ。」と答えます。

自分の内側に入って行くのだと。

外の出来事に惑わされないように、
静かに心の声を聞くようにと言います。

こうすることで、
忘れていたことが思い出され、
それによって知ったことが体験できる、
ということになるのです。

でも、それじゃあいったい、
何のために忘れるの?

そう問いたくなりますよね。

最初から忘れなければ、
そんな面倒なことをしなくても済むのです。

そこで次は、なぜこの世が創られたか、
という話になります。

それは、
究極的な存在である「ひとつのもの」が、
自分自身の素晴らしさを知るためなのです。

これも詳しくは、
ブログ記事「私が考えるこの世の仕組み」
に書きました。

つまり、絶対的な存在は、
その存在が素晴らしいことは知っていても、
素晴らしさを感じることができないのです。

なぜなら、比較する対象がないから。

それで、比較する対象を創ろうとして、
相対的なこの世を創ったのです。

さらにその対象が、
素晴らしくないものでなければ、
自分の素晴らしさは感じられません。

でも、そうは言っても
神は素晴らしい存在ですから、
素晴らしくない存在はあり得ません。

そこで忘却という方法を使って、
自分が素晴らしい存在だということを
忘れるようにしたのです。

それが私たち人間です。

だから人間は、
未熟で生まれてこなければならないのです。

未熟であること、
つまり素晴らしくない存在である必要性が
神にはあったのです。

そう説明されると、
実に辻褄が合うと思いませんか?

私は、この整合性のとれた説明に
本当に感動しました。

これまで、この世は魂の修行をする場だと
言う人はいました。

でも、なぜ魂が修行しなければならないかが
わかりませんでした。

キリスト教などでは、
原罪によって汚れたからだと言います。

しかしその一方で、
人間の努力では救われず
神が一方的に救うだけだとも言います。

つまり人間ができるのは、
遠く離れたところから神のそばまで
水平に移動するだけで、
そこから垂直に持ち上げるのが神だと。

でもそうすると、
神はなぜ最初から救わないのか
という疑問が出てきます。

どう説明しても、
非合理的で矛盾が残るのです。

この辺のことも、
「神との対話」に詳しく書かれています。

先日、阿部敏郎さんの本
「一瞬で幸せになる方法」
を読みました。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/382820320.html

それによると阿部さんは、ある日突然、
とんでもない体験があって、一瞬にして
この世の真実がわかったそうです。

それは何かと言うと、
自分が他人と同じものだったということ。

つまり、
「すべてはひとつのものだった」
ということなのです。

また、
「あの世に聞いた、この世の仕組み」
を書いた雲黒斎さんは、
うつ病の薬の影響で守護霊と、
会話ができるようになったと言います。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/373718213.html

他にも、臨死体験を通じて、
この世の真実がわかったという人もいます。

このように多くの人は、
特異な体験があって初めて、
この世の真実に到達しています。

だとしたら、そういう体験のない人は
ダメなのでしょうか?

私はそうは思いません。

なぜなら、
私はそういう体験はありませんが、
この世の真実がわかったからです。

それは悟りと言ってもよいと思っています。

どうしてそれができたかと言うと、
知ったことを信じたからです。

上記で書いたようなことを、
私は信じたのです。

なぜ信じられたかと言うと、
その考え方が合理的で、
理屈が通っていたからです。

たとえば、「1+1=2」ですよね。

これ、信じてます?

「信じるも何も、事実でしょう。」

そう、理屈が通っているから、
疑いの余地がないのです。

でも信じるとは、そういうことなのですよ。

たとえば、ニュートン力学は
真実だと信じられていました。

そう、アインシュタインが
相対性理論を発表する前までは。

それまで事実だと思われていたのです。

でもそれは、
慣性場という一部でしか通用しない
理論だったとわかるのです。

このように、事実だと思い込んでいる
(=信じている)だけであって、
事実かどうかはわからないのです。

でも、その時点で
論理的に整合性がとれているなら、
たいていの人は事実だと思いますよね?

つまり、信じますよね。

おわかりでしょうか?

私は、特異な体験をしたからではなく、
理屈が通っていると思ったから、
信じたのです。

つまり、それを知ったのです。

そしてそれを知ったから、体験したのです。

こういう体験をすることで、
人はさらに大きく進化成長します。

つまり、もっともっと
幸せになるということなのです。

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