愛は何ものも排除しない

愛は何ものも排除しない

こんにちは!

子どものころ、
家の裏にサツマイモを植えたところ、
畑に植えた父親のより大きく育ってしまった
赤木篤(あかき・あつし)です。

サツマイモは、
つるを30cmくらいの長さに切って、
それを植えていきます。

畑に植える分が余ったので、
もったいないからと思って、
家の裏の空き地に植えたのです。

荒れた土地だったのですが、
逆にそれが良かったのでしょうね。

そんなことになるとわかっていたら、
自然研究として観察するんだったと、
いまさら後悔しています。^^;

さて、今日は愛についてです。

昨日のメルマガにも関係しますが、
愛とは、何ものも排除しません。

これだけ言うと、
たいていの人は同意します。

でも昨日のメルマガで書いたように、
ヤクザ者だって排除すべきではない
などと言おうものなら、
途端に否定するのです。

「でも、
排除したら愛ではないですよね?」

そう問うと、
「それとこれとは別だ」などと言って、
何としてでも持論を正当化しようとします。

いつも言うように、
価値観は人それぞれです。

ですから、どれが正しくて、
どれが間違いということはありません。

その人の考え方にしたがうなら、
その人の行為はいつも正しいのです。

でも、愛について、
「何ものも排除しない」
ということを認めたなら、
ヤクザ者を排除することは
愛ではないことになります。

これを違うというなら、
それこそ太陽が
西から昇ると言うのと同じで、
もう理屈ではありません。

それは屁理屈です。

まあそう言うと、
「人間は理屈じゃない。感情だ。」と、
さらに屁理屈を言う人がいますけどね。

理屈で説明できないけれど、
感情的に納得できない
ということはあるでしょう。

これは、理屈で説明できないだけです。

ただ、だからと言って、
理屈がないわけではないのです。

よくよく考えて感じている
というわけではないとしても、
なんらかの考えが根底にあるのです。

それは過去の
もう忘れてしまったこと、
いわゆるトラウマかもしれません。

それを無意識に引っ張り出してきて、
反応しているだけかもしれません。

でも、
それが無意識だったとしても、
必ずそこに考え、
つまり理屈があるのです。

愛が何ものも排除しないと言うなら、
ヤクザ者だって排除しないのが愛です。

そう言われると、
自分が愛ではないかのように感じ、
「あなたには愛がない」と
非難されているように感じる。

そう認めるのは辛いから、
反発するのではないでしょうか。

よく読んでもらえれば、
私は誰も非難していないことが
わかるはずです。

でも、
自分の過去のトラウマから、
非難されていると感じてしまうのです。

逆鱗という言葉がありますが、
これなどまさにトラウマですよね。

怒られた人には、
何がそんなに怒らせるのか
理由がわかりません。

だって現在とは、
まったく関係がないのですから。

ただその人の
過去の何かと結びついているため、
その過去の考えが蘇ってきて、
現在に怒りとなって現れるのです。

こういう心理学的なことを知っていると、
どういう理屈で人がそう反応するかが
だいたいわかるようになります。

それを知らない人は、
勝手に感情が沸き上がってくるのだから、
理屈などないと考えてしまうのです。

話が横道にそれましたが、
愛は何ものも排除しないのです。

ヤクザ者であろうと、
犯罪者であろうと、売春婦であろうと、
排除しません。

イエスの周りについてきたのは、
そういう人たちであったと
聖書に書かれていますよね。

そう書いてあるにも関わらず、
都合の悪いことは認めようとしないのが、
人間というものです。

自分はそういう人たちと
関係を持ちたくない。

でも、
愛がないとは言われたくない。

だから真実を覆い隠し、
目をそらそうとします。

でもそれによって、
成長から遠ざかって行くのです。

なぜ、様々な出来事が起こるかというと、
生命が自らを進化成長させるためです。

そのために都合の良い出来事を
魂が引き寄せているのです。

ただ私たちの精神は、
そういう魂の意図に気づいていません。

ですから、
精神にとって都合の悪いことは
避けようとするのです。

そういうことがわかってくると、
人生は信頼に足るものだと
わかるようになります。

だって、
自らを進化成長させるために
様々な出来事にあわせるのですから、
人生に起こる出来事に悪いことなど
あるはずがないではありませんか。

もしあなたがヤクザ者と出会うなら、
それは良いことなのです。

あなたの魂が、
そういう状況を創り出したのですから。

それを「ヤクザ者=怖い」という
過去のデータを引っ張り出してきて、
目の前の人が怖い人かどうか関係なく、
勝手に怖い人だと推測し、
怖がっているだけではありませんか。

そして、
その怖い人を排除することは
「正義」だという価値観を作り上げ、
自分の本心は
「それは愛ではない」と言っているのに、
耳を貸そうとしない。

自分の本心に耳を貸さない自分を
認めることが嫌だから、
「正義」という価値観を
ことさら重要なものだと考え、
それを支持する自分を
正当化しようとする。

そういう一連の思考を通じて、
本当の自分の声、魂の声を抹殺しています。

だから、
本当の自分らしく生きられないのです。

なお、
ヤクザ者と出会うことが
良いことだと言っても、
そこでどうするかは
また別のことですからね。

出会ったのが運命だからと言って、
お付き合いすべきだ
ということではありません。

魂は、最適な状況を創るだけで、
そこから先は精神の仕事です。

「この状況でどうする?」

そう問われているのです。

今日、木村秋則さんの
「百姓が地球を救う」という本を
読み終えました。

ブログにも書きましたが、
自然農法というのは、
愛なのだと感じました。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/374793538.html

これまで人は、
害虫とか雑草などとレッテルを貼り、
生命の一部を排除しようとしてきました。

自分が勝手に想像して、
「こいつらが存在するから、
作物が育たないんだ。」と
思ったからです。

だから、
作物を育てるのを邪魔する
こういう悪い奴らを排除することは
「正義」だと考え、
農薬や除草剤で、
無残な殺戮を繰り返してきたのです。

その結果、私たちは
幸せになったのでしょうか?

できた作物は、
生命力のないものになり、
残留農薬などの影響で、
健康被害まで出てきています。

「正義」という
勝手に作り上げた価値観を重大視し、
「愛」という
私たちの本質を無視したために、
私たちの社会の生命力そのものが、
損なわれてる。

そんな気がしました。

そして、
農業も人間社会を営むことも、
同じなのだなあと感じました。

生命は完璧です。

それを人間が勝手にいじくり回すから、
生命が機能しなくなるのです。

機能できなくなると、
生命は変化します。

変化することで、
再び機能できるように姿を変えるのです。

人間が人間として
生きられない世の中は、
ひょっとしたら来るかもしれません。

それは、
生命が自らを維持するために
変化した結果です。

ですから、
それ自体は悪いことではありません。

ただ今の私たちにしてみれば、
良いことととは思えないでしょうね。

私たちが今のような人間として
存在できないということですから。

ではどうして私たちは、
「愛」を無視してでも
「正義」を重視しようとするのでしょうか?

それは、心に不安があるからです。

不安があるから、
必要以上に十分な生命を欲しがるのです。

雑草があると、
作物の栄養が奪われるのではないか。

そう考えたから除草をするのでしょう。

違いますか?

つまり、
自分たちの取り分が減るという不安が、
除草という行為を正当化したのです。

ヤクザ者がいたら脅されて、
自分の生命が
危害を加えられるかもしれない。

そういう不安があるから、
彼らを排除する行為を正当化したのです。

原因は、
それらが実際にやったことではなく、
やるかもしれないと勝手に想像した
不安にあります。

事実を原因にしたのではなく、
実態のない不安だということを、
よくよく考えてほしいのです。

「じゃあ、
もし排除しないで何かあったら、
お前が責任をもつんだろうな?」

そう言いたくなるかもしれませんね。

自分のことには責任を持ちますが、
他人のことにまでは責任は持てません。

なぜなら、
人はそれぞれ自由ですから。

それに私は、
「排除することが悪い」
などとは言っていません。

ただ、
「それは愛ではない」
と言っているだけです。

そして、
生命の本質が愛であるなら、
愛を選択しない生き方は、
上手く機能しないと思っています。

ですから問題は、
愛を選ぶかどうかにある
と思うのです。

そして、
これまでの私たちの生き方を見ると、
正義の名のものとに
愛を選ばないことを正当化してきた。

そう私は感じています。

戦争などは、まさに
その最たるものではありませんか。

「それで良いのですか?」
と問いかけているのです。

それが自分らしいことかどうかを
考えてほしいのです。

決めるのは、それぞれの人です。

私は、
私についての選択をするだけで、
他人の選択に口出しはしません。

ですから、
他人のことに責任は持たないのです。

少なくとも、
自分が愛を選んでいるかどうかについて、
目をつぶるのはやめませんか?

「仕方がない」と短絡的に言い訳をせずに、
その可能性がないか
何度でも考えてみませんか?

せめてそのくらいを考えてほしい。

それが私の望みです。

今までも、そしてこれからも、
それぞれが自分で決めているのです。

それを自分が決めたと
認めない人がいるだけで、
本当は自分が決めているのです。

今までのように、
無意識に選択する(決める)生き方を
続けたいのでしたら、
どうぞ続けてください。

それが自分の喜びだと考えるなら、
そうしたら良いのです。

少なくとも私は、
それを批判したりはしませんし、
誰にも遠慮はいりませんよ。

他人を変えることはできないし、
変える必要もないのですから。

何度も何度も同じことを繰り返し、
いい加減に飽きたとき、
人は初めて自分を振り返ります。

そしてその時、
答は自分の中にあったと気づくのです。

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