根拠の前にある信念が人生を創っています

根拠の前にある信念が人生を創っています

こんにちは!

やっと妻へのプレゼントを決めた
赤木です。

明日が結婚2周年です。

物を買うのはやめました。

これまで一緒に旅行したところ、
これから一緒に行きたいところ、
それを画像で作ろうと思います。

過去の体験に感謝し、
未来の体験を夢見て、
現在をワクワクして生きる。

めいっぱい心をこめた
「ありがとう」の言葉を添えて
プレゼントします。

さて今日は、
信念について考えてみましょう。

よく、夫婦の縁は切れても
親子の縁は切れないと言います。

理由は、血がつながっているから。

親から生まれたという事実は
覆せないから。

まあ常識的にはそうなのでしょう。

しかし天邪鬼の私は、
どうしてもその理屈のほころびを
つつきたくなるのですよ。

本当に自分の子どもだと証明できますか?

父親なんてもろいものです。

いくら「自分の子だ」と言ったって、
母親がひとこと「そうかしらね?」
なんて言おうものならイチコロです。

血液型なんて、
親子の可能性をわずかに
見つけられるだけです。

それにお腹を痛めて産んだ母親でさえ、
今の子がその子だと断定できません。

乳幼児の時、取り替えられた可能性が
絶対にないと言い切れますか?

DNA鑑定しましたか?

でもDNA鑑定だって、
親子関係を100%証明できません。

99%だろうと、99.99%だろうと、
100%でないことには違いありません。

その他の状況などと合わせて、
「まあおそらく間違いないでしょう」
と言うくらいなものです。

結論を言いましょう。

親子関係が特別なのは、
その人がそう信じているからです。

つまり、その人の信念によって
特別なものになっているだけです。

事実に基づいているのではなく、
事実に基づいていると信じているから
特別だと感じるのです。

逆に言うなら、
その人の信念が変われば、
どうにでも変わります。

ただその信念を
「変えられない」と信じているために、
変えられないだけなのです。

つまりこれも、信念次第なのです。

したがって、
もし親子関係が特別だと言うなら、
同じ理屈で夫婦関係も
特別なものにできます。

自分がそう信じるだけで良いのですから。

信念が最初にあって、
それが考え方や価値観、
判断基準といったものを作っています。

またそれを繰り返すことで、
信念はさらに強くなります。

人は信念にしたがって行動し、
その人の人生が創られるのです。

信念は単に、
自分がそう信じたものに過ぎませんから、
いつでも変えることができます。

しかし慣性の法則が働きますから、
何もなしでは変えられません。

もし信念を変えようとするなら、
そこに知性と意思が必要です。

信念を変えるべきときがあるし、
変えようとすれば変えられるという知性。

この信念は自分にふさわしくないから
変えようという意思。

この2つが必要なのです。

話は変わりますが、最高裁が、
非嫡出子の相続を差別する民法の規定を、
違憲だと判断しました。

しかし与党の国会議員の中には、
民法の改定に強行に反対する人がいます。

また国民の中にも、
同じ考えの人が大勢いるようです。

そういう人たちは、
自分の信念が変えられることを
怖れているように思います。

ですから、
伝統的な家族関係に影響を及ぼすことを、
反対の理由にあげているのです。

この伝統というものが
怪しいものだということは、
以前のメルマガにも書きました。

自分たちが経験している
わずか数十年のことを、
伝統的と言っているだけなのですから。

つまり人は、
自分の信念を守るために、
あらゆる理由をでっちあげるものなのです。

理由があるから信念が生まれるのではなく、
まず信念があって、
それを補強するために理屈をつけるのです。

これを一般的に「屁理屈」と呼びます。

私も子どものころ、
よく親からこう言って叱られました。

「屁理屈を言うんじゃない!」

理屈のように見えて、
実は屁理屈だということはよくあります。

動機が信念を守ろうとしているなら、
それは屁理屈なのです。

夫婦別姓にしてもそうです。

選択的夫婦別姓制度の導入にすら
まだ多くの人が反対しています。

自分が別姓になるわけでもないのに、
他人が別姓なのを許せないのですね。

ちなみに現行法のもとでも、
私たち夫婦は別姓です。

別姓に反対する人は、
私たち夫婦の関係が上手く行くことは
認められないのでしょう。

他人の不幸を願わなくてはならないとは、
なんともかわいそうなことです。

これも同様に、
伝統的な家族関係が失われるという理由で
多くの人が反対しています。

もともとは夫婦別姓だったのに、
その伝統を壊して同姓になったという
歴史的な事実は無視して。

源頼朝の奥さんが北条政子だったことは、
中学生でも知っています。

源政子と回答したら、
試験でバツになるんですよ。

また、庶民が姓を名乗るようになったのは、
明治以降のわずか200年足らずのことです。

歴史的に見れば別姓こそが伝統です、
という見方もできるのです。

伝統とか常識とか言う人は、
単に虎の威を借る狐なのです。

ただ「自分の信念だ」と言えばよいのに、
そこに権威をつけようとして、
架空の多勢を味方にしようとする。

それが伝統とか常識という言葉に
頼りたくなる心理的メカニズムです。

そうやって権威付けをして
他人を説得しようとしていると、
その言葉で自分が説得されます。

つまり、ますます自分の信念を
正しいと信じこんでしまうのです。

いわば自己洗脳ですね。

人がなかなか変われない理由は、
ここにあると思います。

つまり、
自分の信念を手放したくないのです。

そしてその信念を、
自分のものだと表現すれば良いのに、
それが「正しい」と主張して、
絶対的な権威付けをしてしまう。

それによって排他的になり、
違いを認められなくなります。

また、そういう厳格な均一主義のため、
今度はそれに自分が縛られます。

つまり自分の信念を守ろうとして、
自分で自由を手放しているのです。

何がそうまでさせるのでしょうか?

それは不安です。

守らなければ、
自分の存在自体が消えてしまう。

その必要性が不安を呼び起こしています。

その必要性は幻想に過ぎないのに、
それに気づかずに不安に怯えているのです。

そしてその不安によって、
自分を不自由にしています。

しかし、
この必要性を感じる気持ちは、
私たちの存在に重要な役割を
果たしています。

そのことは、長くなったので
また改めて書くことにします。

ともかくまず知ってほしいのは、
不安によって信念を守ろうとすることで、
自分が束縛されているという事実です。

そこに気づくことが、
自分を変える第一歩になるのです。

自分を解放し、自由にし、
幸せになるとっかかりがそこにあるのです。

العربية简体中文EnglishFrançaisDeutsch日本語PortuguêsEspañolไทย