犯人探しをするから犯罪がなくならないのです

犯人探しをするから犯罪がなくならないのです

こんにちは、赤木です。

いじめの問題が、
連日のように新聞紙上を賑わせています。

有名人がブログに、
加害者やその家族の実名等を載せたために、
批判や非難、さらには脅迫のメールや電話が
届くようにもなったそうです。

しかも一部誤った情報も乱れ飛び、
同姓の別人が務める職場へも、
非難する電話がかかってきたとか。

これを単に、
一部の人たちがやり過ぎているだけ
と考えているとすれば、
それは本質を見誤っていると思います。

犯人が誰なのかを
特定しなければならない心が、
こういう現象の温床になっています。

温床どころか、
それこそが直接の原因だとさえ思うのです。

加害者の家族が言ったそうです。

いわれのない非難を受け、
もし自分たちの誰かが自殺したら、
非難した人たちはどうやって
責任を取るのかと。

私は、
その言葉の中に真実があると思います。

そもそも、
何のために犯人探しをするのでしょうか?

少なくとも警察が調査をしているのだし、
犯罪に対する処罰なら、
法に従って行うことになっています。

それが法治国家としての決めごとです。

それにも関わらず、
ニュースを見聞きした一般の人が、
自分とはまったく関係のない事件の
関係者を非難することに、
何の意味があるのでしょう?

ただ単に、自分のストレスを
発散させたいだけではないでしょうか。

私は本当にそうだと思っています。

自分の正義(価値観)を他人に押し付けて
認めさせたいだけなのです。

そのためであれば、
自分の価値観を認めない人を
排除してもかまわない。

場合によっては、
この世から抹殺してもかまわないと。

それくらい強烈に思っているのです。

直接的に非難する行動に出るかどうかは、
その人の不安の大きさと関係してきます。

不安が大きいほどその衝動に耐えられず、
後先考えずに行動してしまうのです。

もしそういう非難や中傷によって
誰かが自殺したら、
そういう人たちはきっと言うでしょう。

「私が悪いんじゃないよ。
 最初にいじめをした方が悪いんだ。」

「いじめをするような子供に育てた
 親が悪いんだ。」

「自殺するような弱い人間が
 いけないんだ。」

自分たちがいじめの加害者であることを、
誰も認めようとはしないでしょう。

けれども、間違いなくそういう人は、
いじめの加害者です。

そして、
そういう行為を見て見ぬふりをした人も、
間違いなくいじめに加担したのです。

本当は、
いじめをなくしたいと思っていたはずです。

けれどもそこに、心の不安が働いたのです。

その不安を打ち消すために、
必死で犯人探しをした。

犯人を見つけ、非難し、責め立てた。

その結果、新しい犯人が生まれたのです。

いじめをやめさせるためにいじめた。

笑い話にもなりません。

この世は、私たちが創っています。

私たちが考えたことが、
この世に生まれます。

「誰か悪い奴がいるはずだ。」

そう考えたから、悪い奴が生まれたのです。

本当にいじめをなくしたいなら、
加害者を非難することをやめることです。

加害者には、
加害者なりの正義があったのです。

加害者なりの価値観においては、
間違ったことはしていないのです。

まずはその結果を受け入れること。

そこから始めなければ、
永遠にいじめを繰返すことになるでしょう。

どこかのいじめ対策として、
加害者を泣かせるとか、
すぐに被害者に謝らせて楽にさせないなど、
罪悪感を植え付ける方法を
採用しているところがあるそうです。

そのような作為的な方法は、
なんの解決にもならないと思います。

犯人探しと同じで、
「お前が悪いんだ」ということを
認めさせようとしているだけだからです。

罪悪感を持たせるとは、
自分の正義を他人に押し付けることです。

逆に罪悪感を抱くということは、
自分の価値がないと認めることになります。

自分の価値観で生きてはいけないという、
完全な自己否定です。

罪悪感を抱いた人は、
幸福になることを怖れます。

自分は幸せになってはいけない。

そんな価値はないんだ。

そういう人間を生み出すことに、
どんな意味があるのでしょうか?

それでは本当の意味での
反省はできません。

本当の意味での反省とは、
相手も自分も、ともに素晴らしい価値がある
と認めるところから生まれるのです。

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