自我はなぜ存在するのか?

自我はなぜ存在するのか?

こんにちは!

2日後に戻ってくると妻から連絡があった
赤木です。

バレンタインデーの前日に、
妻は実家に帰省しました。

お陰様で、
つかの間の独身生活を謳歌しましたよ。

と言っても、妻が嫌いなカレーライスを、
ここぞとばかりに食べまくっただけです。

地カレーのブログも書いてますので、
興味のある方はご覧ください。

http://ameblo.jp/aka-9999/

さて今日は、自我についてです。

「自我」にはいろいろ意味がありますが、
ここでは仏教用語として使いますね。

つまり自分と他とを分け隔てるもの、
というような意味です。

これを「エゴ」という言葉で表すことも
できると思います。

「神との対話」シリーズでは、
「エゴ」と呼んでいます。

一方「自我」は、
「あの世に聞いた、この世の仕組み」の
雲黒斎さんなどが使っています。

実は最近、その雲黒斎さんと、
ミュージシャンの阿部敏郎さんの、
ライブトークを編集した本を読みました。

「降参(サレンダー)のススメ」
という本です。

阿部さんは、「いまここ塾」という名で、
スピリチュアルな話をされている方です。

以前、「一瞬で幸せになる方法」という
本を読みました。

いずれの本もブログで紹介していますので、
ぜひご覧になってくださいね。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/388934183.html

その「降参のススメ」の中で、
自我の存在意義について書かれています。

これがまた衝撃的だったのです。

どう衝撃的かと言うと、
「神との対話」で書かれていることと
同じことを言っているという点で
衝撃的だったのです。

その前の本では、
違うことを言っていましたからね。

まず全体像を説明しましょう。

いつも言うことですが、
この世の本質は「ひとつのもの」です。

そこから私たちという個別の存在が
創られました。

で、私たちを個別の存在として
存在たらしめているもの、
それが「自我」です。

仏教では「分別」と言いますが、
自他を区別すること、
その働きをするのが「自我」なのです。

しかし、その「自我」があることによって、
私たちは苦しむことになります。

仏教では「一切皆苦」と言いますが、
人生には「四苦八苦」があるのです。

それが生じるのは、
自分の思いどおりにならないから。

死にたくないのに死ぬ。
病気になりたくないのに病気になる。
老いたくないのに老いる。
会いたくないのに会わなければならない。
会いたいのに会えない。

などなど、すべての苦の根源は、
「思いどおりにならない」ことです。

その「思いどおり」という思いが
どこから生じるかと言うと、
それが自我なのです。

ですから、自我が苦の根源とも言えます。

雲黒斎さんや阿部敏郎さんは、
これを「ひとつのもの」との間のパイプの
詰まりのようなものだと説明しています。

この詰まりを取り除いた状態が
「さとり」だとも言っていますね。

この「詰まり」がなくなれば、
私たちは「ひとつのもの」とのつながりを
取り戻すことができます。

そうすれば、苦から解放されるのです。

だったら、どうして最初から
詰まらないようにできないの?

つまり、
自我なんて最初からなければいいじゃん?

ということになりますよね?

そこで問われるのが、自我の存在意義です。

「あの世に聞いた・・・」の本では、
この世で修行するためだ、
というような説明がありました。

ところが今回読んだ「降参のススメ」では、
命が自分の素晴らしさに気づくためだ、
という説明になっていたのです。

これはまさに、
「神との対話」で書かれていたのと
同じことなのです。

つまり絶対的な領域の「ひとつのもの」が
自分自身を体験的に知るために、
相対的なこの世を創ったのです。

そして、
「ザ・マネーゲーム」から脱出する法」
などにあるように、人生はゲームだという
答えもありました。

これも同じことなのですが、
別の表現方法ですね。

私たちが行うゲームには、
ルールがあります。

たとえば私が好きな将棋だと、
並べる駒の数や位置が決まっています。

そして、一手ずつ交互に指すとか、
駒ごとに進める位置が決まっています。

相手の王を詰めれば勝ちなのですが、
いきなり王の回りに自分の駒を並べて、
開始とともに勝つということはできません。

なぜ、そんな面倒なルールに
従うのでしょう?

それは、楽しむためです。

常に思いどおりになってしまったら、
楽しめないのです。

全戦全勝がわかりきっているゲームは、
面白くないのです。

だから面倒なルールを決め、
思い通りにならないようにしておいて、
そのゲームを行うのです。

ゲームのルールに相当する手かせ足かせが、
私たちの人生では自我(エゴ)になります。

この自我があるお陰で私たちは、
思い通りにならない状況を
思う存分に体験できるのです。

ですから、自我は邪魔者ではありません。

思いどおりにならないことは、
悪いことではないのです。

むしろ福音であり、
最大の贈り物と言えるでしょう。

悟らなければ幸せになれない、
というわけでもありません。

私たちはゲームを楽しんでいる訳ですから、
いま、このときを、楽しめば良いのです。

相手が難しい手を差してきたら、
「ほう、そうきましたか」とばかりに、
今できる最高の手を苦悩しながら考える。

負けてもいいんです。

負けるから、勝つことの素晴らしさが
わかるのですから。

負けたら負けたで十分に悔しさを味わって、
次に挑戦すれば良いのです。

絶対的な安心感の中で、
思い切り苦しむ。

そうすれば、その苦さえ楽しめるでしょう。

自我を否定するのではなく、
自我と仲良くつきあうこと。

そうすれば、「神との対話」で言うように、
「苦しまずに苦しむこともできる」のです。

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