自分で自分を受け入れる

自分で自分を受け入れる

こんにちは!

急にバレンタインデーが関係なくなった
赤木です。

タイのバレンタインデーは、
男性が女性にバラの花を贈って、
愛を表現するとお伝えしました。

それで今年はどうしようかと思っていたら、
妻が帰省すると言い出しました。

今夜の乗合バスで帰省するため、
明日のバレンタインデーは
私1人で過ごすことになりました。

なんだか、ホッとしてます。

ちょっと寂しいけど。

さて今日は、前回とも関連する内容です。

前回は、浮気も含めて、相手のそのままを
受け入れるという話でした。

今日は子育ての話ですが、
実は深いところでつながってます。

今、佐々木正美さんの
「続 子どもへのまなざし」
を読んでいます。

その中で佐々木さんは、
子どもの要求は、子どもが望むだけ
応えてあげるようにと言います。

> 基本的にいえば、子どもが「もういい」
というまでしてあげるのが一番いいですね。
そうすれば子どもたちは安心して、
しっかりと自立していきます。
「もういい」というまでしてあげれば、
一番いい自律や自立をするんです。

母乳をあげるのも、
おんぶやだっこをするのも、
子どもが望むだけしてあげる。

そのように、依存が完全に受け入れられる
という体験を経て、
子どもは自立すると言います。

ただし、おもちゃなどの物を、
際限なく買い与えることではない
とも言われます。

> 基本的にいえば、子どもが「もの」を
要求するときは、心の要求の満たされ方が
不足しているからだ、と思うぐらいの
気持ちで接したらいいのです。

> たとえ「もの」を
買い与えることがあっても、
できるだけ限度をわきまえること、そして、
「もの」で子どもの要求を満たすことは、
できるだけ減らそうという気持ちも大切だと
思います。

と言われて、子どもが遊びたいと言えば
一緒に遊んでやるとか、
何かが食べたいと言えば
その献立を作ってやるなど、
なるべくお金がかからないところで
要求を満たしてやることだそうです。

これは、私自身の体験からしても、
そうだと思います。

私も、けして贅沢をしたかったのでは
ありませんでした。

ただ親に甘えたかったのです。

愛されているという実感が
欲しかったのだと思います。

あるとき、
体調が悪かったか勉強が忙しかったかで、
子ども部屋で食事を食べようとしたことが
ありました。

それで母に言うと、母はそれを受け入れて、
運んでくれようとしたのです。

しかし、それを聞きつけた父が、
「王侯貴族のようなことをするな!」
と怒り、望みは叶えられませんでした。

父にしてみれば、甘やかせば癖になるとか、
図にのるくらいに思ったのでしょう。

上記の佐々木さんは、次のように言います。

> 子どもは図になんか、
そんなに乗りませんよ。

> 多くの場合は真剣な要求です。
子どもたちが安定した情緒の発達を
するために必要な、
そして切実な気持ちだと思います。

> こういうことが多くの親には、
なかなか理解できないことなんでしょうね。

私は子どもごころに、
「自分は甘えてはいけないんだ」
と思っていました。

そして甘えてはいけないと、
自分に言い聞かせながら育ったのです。

親の前では良い子でなければならない。

そのことが、
私の心を締め付けていたのです。

そんなことも、
大人になったから分析できますが、
子どもにはわかりません。

ただ、
「私は自分のままでは愛されない」
という思いが深まるばかりです。

そのことによって自己受容ができなくなり、
自立できなくなるのです。

愛するとは、
相手を完全に受容することです。

相手のままでいいんだと、
受け入れることです。

ですからそういう意味では、
仮に身体が大人になっても、
子どものように受け入れることが
心の成長のためには必要になります。

ただそうは言っても、
大人になった人の要求を
完全に受け入れることは、
難しいでしょうね。

たとえば子どもなら、
何か物を買ってと駄々をこねたりしますが、
大人はそんなことはせず、
暴力を振るったりします。

いわゆるDV(家庭内暴力)で
夫が妻を殴ったりするのは、
夫が自己受容ができていないからです。

そのために自律心が育っておらず、
暴力という形でしか気持ちを
吐き出せなくなってしまっているのです。

そんな夫を完全受容すべきだと言っても、
そりゃあ無理な話です。

佐々木さんは、子どもがものをねだるのは、
心が満たされていないからだと言います。

逆に言うなら、心が満たされれば、
ものをねだらなくなります。

同じように大人の暴力も、
暴力は認めないものの、
心を満たしてあげることで
解決に向かいます。

ただそれが、
暴力を怖れてビクビクしながら
言うことを聞いているのだとすれば、
あまり効果は期待できないでしょう。

本当にこの人を助けてあげたい。

本当にこの人が大好きだ。

そういう思いからでなければ、
見せかけの受容はいずれ
化けの皮が剥がれるのです。

そういう意味からすると、
大人になっても完全に受容できるのは、
その人の親くらいしかいないでしょうね。

自分たちが産んだ子どもなのだからと、
刺し違えるくらいの覚悟で、
完全に受け入れてあげることです。

それがあったら、
どこかの通り魔殺人事件だとか、
バスジャック事件のようなことには
ならなかったのではないかと思うのです。

犯罪の多くは、
親から受容されなかった子どもが
自立できなくて引き起こしている
と私は思います。

満たされなかった思いが恨みとなって、
他者を傷つけてもかまわないと
感じるようになるのです。

また自立できなかった子どもは、
自分の子どもを完全受容することも
できません。

自分だって甘えさせてもらえなかった。

まるでその恨みを晴らすかのように、
子どもに厳しく接してしまうのです。

虐待されて育った子が親になったとき、
自分の子どもを虐待してしまうのも、
こういうことがあるからです。

どこかで誰かが、
その連鎖を絶たなければなりません。

そう、自分がやるのです。

多かれ少なかれ人は、
自己受容ができていないものです。

そのため、
他者からの愛を欲してしまうのですが、
その執着心が悲劇を引き起こします。

だからもう、
他者に愛を求めるのはやめて、
自分で自分の欲求を満たすのです。

自分自身を愛してあげましょう。

ダメな部分もひっくるめて、
それでいいと受け入れるのです。

そのための方法が、
ブログで紹介している「鏡のワーク」です。

もちろん、カウンセラーなど
専門家の協力をあおげる方は、
どうぞ利用してくださいね。

それが経済的に難しいということでしたら、
せめてこの「鏡のワーク」だけでも
やってみてください。

自己受容をすれば、心が軽くなります。

他者に依存しなくても済むようになります。

そうすれば、自由を感じるでしょう。

自由になれば、幸せになれるのです。

العربية简体中文EnglishFrançaisDeutsch日本語PortuguêsEspañolไทย