性的な表現は何歳からならOKですか?(18禁)

性的な表現は何歳からならOKですか?(18禁)

こんにちは!
なぜか週末に体調を崩してしまう
赤木です。

今度は鼻風邪です。
詳しくはブログをご覧ください。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/313302268.html

さて前回、
AKB河西さんの話題になった写真について、
どう考えるかという話をしました。

私自身は、大したことではないと考えると、
その理由とともに説明しました。

同様に「大したことない」と考え、
発売を擁護する有名人も出てきましたね。

出版プロデューサーの高須基仁氏や、
漫画家の小林よしのり氏などです。

あれは児童ポルノに該当しない
という意見のようです。

私はさらに、その背景には、
もっと重要な問題をはらんでいる
と言いました。

つまり、児童の性的表現は
社会的に認められるかどうか
という問題です。

それはつまり、何歳になったら
性的な表現が認められたり、
セックスが許させるのか、
という問題です。

今回は、
このことについて掘り下げてみます。

まず前提として、大人の性的な表現は、
自由として認められています。

もちろん、セックスすることもOKです。

しかし、子どもには認めていませんよね。

どうしてでしょうか?

では、何歳からならOKなのでしょうか?

「子どもにはまだ、
性的な欲求が芽生えていないから、
そんなことを表現したいとは思わない。」

そうでしょうか?

私は、ブログにも書いていますけど、
自分の性欲を意識したのは
小学校に上がる前のことです。

小学校の高学年の頃には、
初めて自分の手でオナニーをしました。

保育園の頃は、鉄柱で股間をこすって、
快感を得ることは知っていました。

小学校に入ってからは、
校庭にある登り棒を使って、
快感を得たりしていました。

話がそれますが、実はこれ、
意外と知られていることだったのですね。

ネットで検索してわかったのですが、
けっこうみんな知っているようです。

http://goo.gl/8UlFw

保育園のころに偶然に発見した快感ですが、
小学校からは、意図的にやったのです。

また、通販カタログから、
下着の女性の写真を切り取り、
アイドルの顔写真を貼って
コレクションしたりしてました。

そういう経験からして、
児童にだって性欲があることは確かです。

もし、児童のころでも
それが可能な環境があれば、
セックスをしようとしたかもしれません。

興味があったし、
自慰は気持よかったのですから、
当然のことだと思います。

でも、そういう環境はなかったし、
してはいけないことだと言われてきたので、
初体験は20歳を超えてからでしたけど。

このことから言えるのは、
人の自然な欲求は、
性的な快感を得たいということです。

たとえ児童であっても、
そういう欲求は持っています。

ですから、
可能ならそういう自分を表現したいし、
そういうものを経験したいのです。

その自然な欲求を禁止する根拠は、
いったいどこにあるのでしょう?

よく女性に対して、
こういう説得をすることがあります。

「傷つくのは女の方なのだから。」

どういう意味でしょうか?

セックスすると、
どうして女性が傷つくのでしょう?

考えられることの1つは、
今もなお、はびこっている処女崇拝です。

女の価値は処女かどうかにある。

そんなバカバカしい価値観が、
今も世界中に残っています。

そのために、
どれほど多くの女性が苦しんだことか。

女性には貞淑であることを求め、
男性には早く童貞を捨てることを求める。

そんな男性優位の価値観を押しつけられ、
いつしか女性自身もそれを受け入れ、
処女で結婚することが素晴らしいのだと
考えるようになったのです。

また、こういう叱り方もあります。

「もし子どもができたらどうするの?」

「仕事もしてないのに、
育てられないでしょう。」

「それで、どうやって責任を取るの?」

つまり、子どもができたときは、
親が責任をもって育てるべきだという
価値観があるのでしょうね。

かと言って産まないという選択をすれば、
堕胎によって身体を傷つけることになると。

「避妊すればOKでしょう?」
という反論もできますが、
万が一ということもあるので、
価値観そのものに疑問をぶつけましょう。

子どもを産んだら、
その親が子育ての責任を負うべき。

その価値観は絶対でしょうか?

他の価値観があっては、
いけないのでしょうか?

そもそも、20歳になったからと言っても、
精神的に子どもな人はたくさんいます。

そんな幼児性の強い大人が、
子育ての責任を負わされています。

幼児虐待、育児ノイローゼ、
そして子育てが原因の離婚。

どうしてもっと、
精神的に大人になった人たちが
子育ての責任を担わないのでしょうか?

子どもは親が育てるという価値観を、
絶対視することをやめてみることです。

事実、昔は親だけが育ててはいません。

乳母というものがあったし、
そうでなくても、
祖父母や近所の大人たちが協力しました。

「遊び半分のセックスなんて、
それで性病が広まったら困るでしょう?」

性病の心配も、ナンセンスです。

それなら大人は、
セックスをしないのですか?

感染症の対策をすることは重要ですが、
感染症が怖いから何かをしないとすれば、
それは過保護と言うものでしょう。

インフルエンザに感染するのを怖れて、
外出しないのと同じことです。

このように、子どもに
セックスや性的表現を禁止する理由は、
あまり説得力があるとは思えません。

もちろんだからと言って、
何も教えずに好き勝手にさせろと
言っているわけではありません。

セックスと言っても、
要は人間関係の表現の1つだと思うのです。

人間関係はすべて、
そこに自分らしさを発見し、
より大きな自分を経験するためのもの。

まずはその基本的なことを、
子どもたちに自分で考えさせることが
重要な教育だと思います。

自分の欲求を押し通すために、
暴力を使うことは自分らしいことなのか?

相手が承認していないのに、
あるいは相手が迷っているのに、
無理に自分の考えを押しつけることは
自分らしいことなのか?

ただ禁止するのではなく、
自分で考えさせ、選択させることによって、
より深く理解するのだと思います。

選択し、経験することによって、
それは自分らしいとか、自分らしくないと
感じることができるからです。

それを感じないと、
人は変われないのですよ。

児童ポルノ問題も、
やはりそこに行き着きます。

どうして年端もいかない児童に、
性的な欲求を覚えるのでしょう?

それは、相手が
抵抗できないからではありませんか?

もちろん、
動物の子どもが愛くるしいように、
児童というのは愛くるしい存在です。

それを可愛いと思う感情は否定しませんが、
どうしてそういう子どもを
性の対象にする必要性があるのかを
じっくりと考えてみることです。

今は、その被害にあう児童の側の、
自由を制限することで
そういう大人たちから遠ざけ、
守ろうとしています。

でも本当は、そういう大人たちに、
本当の自分について考えてもらえるよう
教育を与えるべきではないでしょうか?

教育に関して言えば、
読み書きソロバン以上のことを習っても、
あまり意味がありません。

読み書きソロバンは、
私たちが学習していくための
最低限のツール(道具)です。

道具は使うことに意味があるのであって、
使いもしない道具の使い方を習っても、
時間の無駄というものです。

ですからそんなことを学校で習うより、
人間関係において自分を発見することを
学習する方が有意義だと思います。

そしてその教育は、
子どもたちだけでなく、
大人に対しても行われるべきです。

幸せでない大人は、
自分自身を見失っているのですから。

大人が自分を見失っている社会で、
どうして子どもたちを
健やかに育てられるでしょう?

なぜ自分は幸せになれないのか?

それをきちんと教え、
自分を発見できるように指導してくれる
大人の学校が必要だと思うのです。

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