これが吉兆かもしれない
- 2016.05.18
- 2016年
こんにちは!
退職に向けて準備を進めている
赤木です。
リストラを通告されて3日目になります。
知った当初は驚き、少し気が動転しました。
気が重かった家族への報告も済み、
温かい言葉をかけてもらうと、
少し落ち着きました。
お金がなくなる不安も押し寄せましたが、
いざとなれば実家に帰って、
介護の仕事がありそうだとわかったことで、
路頭に迷う心配はなくなりました。
妻はさっそく、
安いアパートを探してきたようです。
6月の1ヶ月分はダブりますが、
その間に荷物を少しずつ移すことにします。
有無を言わさない感じでことが進みます。
これがきっと、運命の流れなのでしょうね。
もしそうなら、
それに乗っかるしかないのだと思いました。
それにしても、こんな実況ができるなんて、
ある意味でラッキーですよね。
「リストラされました!」だけでも、
超インパクトがあります。
その上で、
幸せ実践塾の塾長がどう対応するのか、
みなさんはリアルに鑑賞できます。
こんなドラマのような展開があろうとは、
幸せ実践塾を始めたころは
想像もしていませんでしたよ。
なんだかワクワクしてきます。
さて今日は、これが吉兆かもしれない
という話です。
今回の出来事によって、
私の気持ちがどう動き、
それにどう対処したかということは、
きっとみなさんも関心がおありでしょう。
私自身も、
これは自分を見直すよい機会なので、
メルマガに書いて残したいと思いました。
昨日の出来事ですが、
会社に貸し付けているお金の返済について、
本社とやりとりしました。
私は経営者としての責任から、
会社の運転資金として私財を投入して、
経営を安定させようとしてきました。
会社への貸付は無利子で、
毎月少しずつ返済してもらっていました。
以前から、会社の経営を巡って、
本社とは少しすれ違いがありました。
大きな方針は本社の承認を得ていますが、
小さなことは私のやり方を通したのです。
そういうこともあり、
私が解任されるかもしれないことは、
薄々感じていたことでした。
しかしそれは本社が決めることですから、
私が口を挟むべきことではない
と私は思っていたのです。
ただし、
退任するときは貸付金を返してもらう
と言ってありました。
経営者という立場であれば、
その責任から私財を貸し付けもしますが、
経営者でなくなったのなら、
それからも解放されるべきと思うからです。
ところが昨日、本社から言ってきたのは、
返済はこれまでどおりというものでした。
そのメールを読んだ時、
私の心の中には怒りが湧き上がりました。
「解任はするけど借金は返さないとは、
いったいどういうことか!?」
怒りの原因の1つは、お金の不安です。
貯金も底をつくような状態で、
無職になって収入が絶たれるのです。
それなのに、
これまで通りのわずかな返済額だと、
月々暮らしていくことさえままなりません。
「すぐに次の仕事が見つかるだろうか?」
その不安から、
なんとしてでも貸付金を取り戻したい、
という気持ちになったのです。
私は、あまりに理不尽な対応ではないかと、
本社を糾弾するようなメールを書きました。
しかし、そのメールは出しませんでした。
ひとまず落ち着いて考えようと思い、
そのメールを保存したのです。
しばらくたって、
糾弾することは無意味だと思いました。
そこでそのメールを修正し、
その金額では当面の生活が成り立たないと、
譲歩してもらうようなメールに直しました。
次に本社からは、
返済金額を倍にするという案が
メールで提示されました。
私は、それでも納得できませんでした。
経営者でもない私が、
私財を貸し付けたままにしておくのです。
しかも無利子ですし、
最後まで返済される保証もないのです。
そのリスクを、
私が負うのは理不尽だと思いました。
本社として返済金を出せないのであれば、
役員が個人的に私の貸付金を立て替えて、
肩代わりすべきではないか。
私の解任を決めたなら、
そのくらいの覚悟をすべきだ。
そんなことを考えたのでした。
私の怒りのもう1つの理由は、
本社が理不尽だというものでした。
つまり、私に正義があるということ。
この正義が守られないことによって、
私自身の存在基盤が傷つくという
恐れ(不安)を抱いたのです。
しかし、しばらくして、
私自身がお金と正義に執着していることに
やっと気づきました。
「いったい何を恐れているんだ?」
そう自問することで、
その愚かさが見えてきたのです。
私がいつも言うことですが、
価値観は人ぞれぞれなのです。
私に私の正義があるのと同様に、
相手には相手の正義があります。
私の正義を押し付けようとしても、
相手は自分の正義を
頑なに守ろうとするでしょう。
他人は変えられません。
いえ、
他人を変えようとしてはいけないのです。
では、その理不尽と感じる相手の対応を、
私は我慢して
受け入れなければいけないのでしょうか?
そのことを考えていた時、
1つの答えが心に浮かびました。
「この出来事は私が引き寄せている。」
その瞬間に、
天を覆っていた雲がサーッと散って、
青空が見えたような気持ちになりました。
「そうか、
これは魂が私を導いているんだ。」
「人間万事塞翁が馬」という
故事があります。
こちらのブログ記事で説明していますので
知らない方はお読みください。
「人間万事塞翁が馬とはどういうこと?」
http://4awasejsn.seesaa.net/article/287874552.html
その老人のように、
一見すると悪いと思えることが起こっても、
それが吉兆かもしれないと言うこと。
それによって、
運命が切り開かれていくのです。
何の根拠もありませんし、
定かな見通しもありません。
けれども、少なくとも今の私は、
何ら困った状況ではないことも確かです。
将来がどうかなど、
今から心配することではありません。
ひょっとしたら今以上に、
素晴らしい未来かもしれないのです。
それなのに、
どうして恐れる必要があるのでしょう?
今の自分に見通せないというだけで、
どうして不安になる必要があるのでしょう?
この自分(エゴ)よりももっと素晴らしい、
全知全能の魂(神)が
私を導いているというのに。
「神との対話」にはこうあります。
「あなたの幸運は必ず訪れる。
あなたは必ず「救われる」。
それがわからないことこそ地獄で、
地獄はそれ以外にはない。」
(p.156)
「わたしを最も必要としているときに、
わたしを捨ててはいけない。
いまこそ、試練のときだ。
いまこそ、チャンスだ。
ここに書かれたすべてを
証明するチャンスだ。」
(p.158)
私は、快く本社の提案を
受け入れることにしました。
不安を手放し、
人生を信頼することに決めたのです。
そうしたとき、
恨みがましくさえ感じた本社の対応にも、
感謝の気持ちが湧いてきました。
考えてみれば、
タイで15年間働くことができたのも、
本社があればこそでした。
一介のSEに過ぎなかった私に、
経営を任せてくれたのです。
なあに、何とかなるでしょう。
「私の人生」という名のドラマは、今、
これまでで最大の山場を迎えています。
ここが最大の見所であり、
いよいよ私の出番なのです。
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