病気が教えてくれること

病気が教えてくれること

こんにちは!

昨日、ボイストレーニングを受けた
赤木です。

声や話し方が良くないと、
せっかく良いことを話しても伝わらない。

そう言われて、ボイストレーニングを
受けることにしました。

昨日で2回目のトレーニングでしたが、
声を録音してBefore-Afterで比較すると、
まったく違っていることがわかります。

滑舌が良くなり、聞き取りやすくなります。

これが何の役に立つかはわかりませんが、
直感でピンときたので始めました。

直感に従って生きることを実践しています。

さて今日は、
病気が教えてくれることについてです。

ブログに書きましたが、
「食べること、やめました」という
森美智代さんの本を読みました。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/392491254.html

森さんは若いころ、
脊髄小脳変性症という難病を患い、
余命5~10年ほどとわかりました。

それで、その病気を治すために、
甲田光雄院長の断食&少食療法を
行うことになったのです。

その療法を行う中で、
自分の身体に合った食事を模索するうちに、
1日青汁1杯という仙人食に至った
というわけです。

わずか100Kcalほどの食事で、
健康な身体を13年も維持されています。

その森さんが、
病気についてこう言われています。

「病気になる前の私は、
元気なのが当然だと思っていました。

自分に与えられたものに、
何ひとつ感謝していませんでした。

何もかもが普通で当たり前でした。

考えてみたら、
当たり前ということはありません。

手や足や目や口や体の全部が、
きちんと働いてくれるのは、
本当にすごいことです。

どこか不自由なところがあっても、
ほかのところがきちんと働くのは
すごいことです。

そのことに、
病気をして初めて気がつきました。

前は、気がつかないにもほどがあるほど、
気がついていませんでした。」

(p.168 – 169)

つまり病気になって初めて、
身体のどの部分も正常に機能することが
当たり前ではない、と気づいたのです。

当たり前でないということは、
裏返せば奇跡だということです。

奇跡とは有り難いこと。

だから、感謝したくなるのですね。

病気が回復して働く意欲が出てきたころ、
森さんは鍼灸師にならないかと誘われます。

これもまた運命ですね。

こうして森さんは
鍼灸師になられたのですが、
ここでもまた大きな気づきがありました。

「ツボは、すべての人が
生まれもっているものです。

そのことを考えると、
もともと「人間は病気をするもの、
人は失敗するもの」と
想定されているのだろうという気がします。

そのために「ツボ」という、
病気をしたときに治す場所をもって
生まれてくるのではないかと思うのです。

ツボは、
人が自らをメンテナンスするための、
神様からの贈りものかもしれません。」

(p.146)

病気になることが想定されているのが
人間だということです。

そして、その病気を治せるように
創られているのだと。

つまり病気になることも、
病気が治ることも、
導かれていることなのです。

病気になって何かを学び、
そのステージが終わったなら、
病気はまた治るのです。

では、病気とは私たちに
何を教えてくれるものなのでしょうか?

それは先ほどの森さんの気づきの中に
示されています。

つまり、
当たり前なことが当たり前ではない、
ということです。

ただいるだけで有り難い。

つまり私たちは、何がなくても、
有り難いことだらけの中に生きている、
ということです。

幸せになるなと言われても、
そんなことは不可能だと感じられるほど、
有り難くて有り難くてたまらない。

それが、今の私たちなのです。

そして病気は、その本人だけでなく、
周りの人にも様々な影響を与えます。

それが周りの人にとっては、
贈り物ともなるのです。

森さんが
養護学校の臨時教員として働いていた時、
障害を持つ子の中に、
とりわけきれいな光に包まれている子が
いたのだそうです。

そのときの気づきを、
森さんはこんなふうに言っています。

「自分の目がおかしいのだろうと思いつつも、
そのきれいさに感動していると、頭の中に
「菩薩行(ぼさつぎょう)」という言葉が、
声なのかインスピレーションなのか
わかりませんが、突然に響きました。

その声(インスピレーション)は、
「この子はこの子の周りの人のために、
身をやつして障害をもって生まれてきて、
周りの人を成長させているんだよ」
と続きました。」

(p.102)

障害も病気も、
似たような影響を周りに与えます。

だとしたら、病気になったのは
その人が悪いからではなく、
周りの人に何らかの贈り物をするため、
とも言えますよね。

だから、罪悪感も被害者意識も、
持つ必要性がないのです。

その出来事がどういう意味を持つかは、
その人がどういう意味を与えるかに
かかっているのです。

病気になった人は、何の遠慮もなく、
堂々と病気治療に専念すれば良いのです。

そしてその病人を介護する立場の人は、
自分がそういう立場になったこと、
つまり導かれたことの意味を
考えればよいのです。

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