批判してしまう理由

批判してしまう理由

こんにちは!

昨日は熱中症になりかけた
赤木です。

恒例のソフトボールでしたが、
いつものように暑い一日でした。

しかも風がほとんどなく、
第1試合はキャッチャーをやりました。

面をかぶって座ったり立ったりと、
なかなかハードなポジションなのです。

3回に身体の異変に気が付きました。

「これは、やばいな。」

それで、攻撃時にやっていた審判を辞退し、
日陰で涼むことにしました。

それで何とか、倒れずに済みました。

第2試合は交代しながらの外野だったので、
それほど負担はありません。

攻撃時の審判もやりながら、
なんとか活動を終えました。

こういう日は、
身体を冷やす氷が必須ですね。

水を飲んでも汗が張り付くだけで蒸発せず、
身体が冷えませんから。

予報では、バンコクの暑さも昨日が峠。

今日からは雨が降って、
少し気温が下がることになっています。

さて今日は、批判してしまう理由
という話です。

読者のNさんからメールをいただきました。

以下、メールから抜粋します。


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最近、芸能人の行動や発言に対して
批判するというような状況が
エスカレートしているような気がします。

中には、同意したり、無関心という人も
沢山いると思います。

(中略)

そこで、批判する人は、なぜ批判を選択したのか、
同意する人は、なぜ同意を選択したのかを
無関心の人は、なぜ無関心を選択したのかを
いつもの感じで解説していただけませんでしょうか?

自分の中では、
感覚的にはわかっていると思っているのですが、
それを自分の子供に話す時に、

いい言葉がでてきません。

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ということでしたので、
私なりの考えを書いてみたいと思います。

すぐ批判してしまう人というのは、
2つの理由があります。

1つは、恐れているからです。

自分の存在基盤が崩れてしまうような、
そういう恐れを抱いています。

たとえば、
乙武洋匡さんが不倫したと知った時、
「奥さんがかわいそうだ」と言って、
乙武さんの行動を批判する人がいます。

たいていは、
奥さんに自分の姿を重ねています。

つまり、自分に似たような体験があるとか、
同じような立場にいて、
ご主人が浮気するのではという不安が
自分の中にあるからです。

ですから、
奥さんがどう思っているかも関係なしに、
「かわいそうだ」と決めつけるのです。

だって、自分がそう感じているのですから、
奥さんだって同じはずだと思うのですね。

事実がどうかではなく、
自分が思っている不安が刺激されたから、
それが受け入れられなくて、
代わりに乙武さんを批判するのです。

もう1つは、優越感に浸りたいからです。

他の人を蔑むことによって、
相対的に自分の価値を高めるのです。

特に、
それまで価値が高いと思っていた人が、
意外とそうではないとわかったとき、
食いつきやすくなります。

清純派と思っていたベッキーさんが、
意外にも不倫をしていたかもしれない。

それだけで十分なのです。

「あんなふうに見えてね、
意外と性格悪いんだよ。」

会ったこともないベッキーさんのことを、
勝手にそう決めつけてしまいます。

ここぞとばかりに引きずり下ろして、
いかに自分が価値が高いかを
暗に示すのです。

「いや、私だってそんな
立派な人間じゃないけどさあ、
あそこまでひどくはないから。」

このように、相対的な表現を使って、
謙虚さも併せ持っていることを主張します。

なぜ、そんなことをするのでしょうか?

それは、他人から評価されないと、
自分で自分の価値を認められないからです。

自分は無価値なのではないか?

そういう不安を常に持っているので、
機会を捉えて自分の価値を
確認したくてたまらないのです。

このように、大きく分けると
2つの動機があるように思います。

その両方が動機として
入っているケースもあるでしょう。

いずれにしても、
その根本には「不安」があります。

「同意する」ケースも、
「不安」を動機としている場合があります。

たとえば、
自分が不倫をしているとしましょう。

誰かが芸能人の不倫を批判していると、
それが自分への批判であるかのように
聞こえる場合です。

そうすると、芸能人の話にかこつけて、
自分自身を正当化しようとします。

「ひょっとしたら、
奥さんがひどい人だったかもしれないよ。」

つまり、不倫にも正当化できる理由がある、
ということを主張したいのでしょう。

それは、自分自身を守るためであり、
守らなければ自分の存在基盤が崩れてしまう
という不安があるからなのです。

では、動機が「愛」なら、
どうなるでしょう?

「神との対話」では、
不安と愛についてこう言っています。

「不安はちぢこまり、閉ざし、引きこもり、
走り、隠れ、蓄え、
傷つけるエネルギーである。
愛は広がり、解放し、送り出し、
とどまり、明るみに出し、分けあい、
癒すエネルギーである。
不安だから身体を衣服で包むのであって、
愛があれば裸で立つことができる。
不安があるから、
もっているもののすべてにしがみつき、
かじりつくが、愛があれば、
もっているすべてを与えることができる。
不安はしっかりと抱えこみ、
愛は優しく抱きとる。
不安はつかみ、愛は解放する。
不安はいらだたせ、愛はなだめる。
不安は攻撃し、愛は育む。」
(p.34)

まず、「かくあらねばならない」を
他人に押し付けたりしません。

押し付ける必要性がないからです。

したがって、批判することはありません。

一方で、称賛という形で、
特定の価値観を押し付けもしません。

相手がどう思うかは、
相手の自由にさせます。

それはある意味で、無関心となります。

相手がどう考えようと自由なのであれば、
それについていちいち論評しないからです。

マザーテレサは、
愛の反対は無関心だと言いました。

しかし、愛は一見すると無関心です。

相手に何かを押し付けないからです。

ただし、自分がどうしたいかは、
自分が決めます。

他の人を助けたいのであれば、
それが自分らしいからという理由で、
そうするでしょう。

助けた相手からどう思われるかなど、
どうでもいいのです。

どうでもいいとは、無関心ということです。

したがって、芸能人の言動に関しては、
無関心であったり、
「自分はこうだ」と言うことはあっても、
その人の行為を批判もしなければ、
とりたてて賞賛することもないのが、
「愛」を動機とした場合の対応になる、
というように思います。

批判にしても称賛にしても、
他人に価値観を押し付けようとしたなら、
それは動機が「不安」なのです。

「不安」でなければ、
つまり「愛」なら、
他人を自由にさせるでしょう。

Nさんの質問に、
私なりに答えてみました。

もし何かありましたら、
またいつでもメールをくださいね。

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