他人ごとを自分ごとにする
- 2013.12.02
- 2013年
こんにちは!
随分とご無沙汰してしまった
赤木です。
2週間ぶりになってしまいましたね。
どうもすみません。
新しいサイトの立ち上げがあったり、
日本からの来客があってアテンドしたりと、
いろいろ忙しくしていました。
これからまた、通常通りに発行しますので、
よろしくお願いします。
ちなみに、新しいサイトはこれです。
「「神との対話」を人生に活かす」 http://xn--o9jm0754amtys3r.net/
私がイチオシの「神との対話」を
前面に押し出したサイトです。
そして、「神との対話」に関する
セミナーを行うことも決定しました。
来年1月13日の午後、都内で行います。
詳細は、今月半ばくらいに
発表できると思います。
10名くらいの少人数のセミナーで、
参加費は本代程度を予定しています。
ナマの私を見てみたいという奇特な方は、
申込みのお知らせを見逃さないよう
これからのメルマガをご覧くださいね。
さて今日は、
今騒がれているタイのデモについて
書いてみたいと思います。
すでに日本でも報道されているように、
反政府勢力が政府機関を占領するなどの
不法行為を繰り返しています。
昨日は電話会社の電源を切るなどしたため、
ネットがつながりにくくなりました。
また地上波テレビ局に侵入するなど、
やりたい放題です。
反政府勢力は、
クーデターによって追放された
タクシン氏に敵対する人々です。
反タクシン派とも呼ばれます。
ことの始まりは、
2006年9月のクーデターでしたね。
簡単に振り返ってみましょう。
タクシン首相が国連総会に出席中に、
軍が全権を掌握しました。
軍事政権は憲法を変えて、
タクシン派が自由にできないようにして
選挙を行いました。
しかしその選挙でもタクシン派が勝利。
すると今度は、
憲法裁判所(最高裁)が与党幹部の
様々な違法行為を理由に与党を解党させ、
幹部を失職させました。
俗に司法によるクーデターと言われます。
その後、2010年4月、
今度は赤シャツと呼ばれるタクシン派が、
都心部を占拠しました。
これに対して治安部隊が発砲するなどして、
91名が死亡、1,400人以上が負傷するという
大惨事となりました。
日本人ジャーナリストも犠牲になっています。
その後の選挙で、再びタクシン派が勝利し、
現在に至っています。
インラック首相は、
タクシン氏の妹さんです。
今回、タクシン氏を帰国させるための
恩赦法案を成立させようとしたことで、
反タクシン派の猛反発をくらいました。
政府は、法案を成立させないと発表。
しかし反タクシン派は収まらず、
タクシン派を追い出すまで戦うとして、
行動を先鋭化させています。
この争いの根源がどこにあるか、
一言では言い切れません。
「富裕層」対「貧困層」という面もあるし、
「王室礼賛派」対「民主主義派」
とも言えます。
単純に「タクシン氏が好きな人」と、
「嫌いな人」の争いとも。
「旧特権階級」対「新興勢力」という
図式もありますね。
ここで、
その詳細を検討するつもりはありません。
そうではなく、この対立の本質について
考えたいと思います。
私はこの争いを、
「子どものケンカ」と考えています。
正義は、人の数ほどあるのです。
どちらにも、自分が正しいという
言い分があります。
そしてその人の価値観に従えば、
それは正しいのです。
子どもは、
ケンカをすることで成長します。
自分の正義を通そうとして相手を叩けば、
叩き返されて悔しい思いをします。
それなら今度はと2回叩けば、
相手からは3回叩き返されます。
そんな不毛なケンカを、
子どもは飽きもせずに繰り返します。
今のタイは、それと同じだと思います。
もちろんこれは、
タイだけの話ではありませんよ。
日本でもかつて、
違法なデモによって国政を変えようとした
時代がありました。
また世界を見るなら、
あちこちで同じようなことをやっています。
結局、人は、
懲りるまでやるしかないのです。
残念なことですが、
単に知るだけでは納得できないのでしょう。
叩けば叩き返されるのは当然なのに、
性懲りもなく叩こうとするのですから。
でも、子どもも大人になる過程で、
叩くことの愚かさがわかるようになります。
叩かずに問題を解決する方法を
選ぶようになるのです。
その点、今の日本人は、
とても精神性が高いと思います。
東日本大震災でも、
あの混乱の中で整然と列を作る光景は、
世界の人々を感動させました。
東京オリンピックの招致では、
日本人のおもてなし精神が強調されました。
おもてなしとは、
相手のことを思いやる気持ちです。
それが日本人の、
精神性の高さだと思います。
思いやるというのは、
「他人ごとを自分ごととして考える」
ということだと思います。
叩かれた相手のことを、
自分が叩かれたように思う。
そうすれば、そう簡単に
相手を叩けるものではありません。
別の言い方をするなら、
「自分のワクを広げる」ことになります。
神経の感覚がある皮膚より内側を
自分とするような狭い考えではなく、
もっと自分という概念を広げるのです。
また恋人とか家族、
親族などに対する特別な気持ちを、
さらに広げるのです。
こうして、
自分というワクをどんどん広げていくなら、
世界中が、宇宙中が自分になります。
そうなったら、
世界が困ることを、宇宙が困ることを、
平気でできるでしょうか?
中国の人が街にツバや痰を吐くと言って、
マナーの悪さを指摘する人がいます。
かつての日本人も、そうだったのですよ。
もう忘れているかもしれませんが、
少なくとも今50歳以上の人なら、
そんな日本を見ているでしょう。
どこにでも好き勝手に
ゴミを捨てていたのです。
今は、そういうことをする人は、
ごく少数だと思います。
自分の家の玄関でツバを吐けないなら、
道端にも吐くべきではない。
これが、
「他人ごとを自分ごとにする」
ということです。
私たちの本質は「ひとつのもの」です。
口が鼻に噛み付かないのは、
鼻を許しているからではありません。
そもそも違っていて当然だからです。
それぞれがそのままでいい。
そう思うから、
噛み付く必要性がないのです。
私たちは、体験することで
深く知ることができます。
単に頭で知るのとは違い、
自分の行動の原動力になります。
ですから、体験することが大切です。
子どもの頃は、
何度でもケンカをすることです。
そのとき、
頭でわかったつもりになるのではなく、
体験して心の声を聞くべきなのです。
親から説教されて
頭でわかったフリをしても、
何も良いことはありません。
そのときの自分の感情を、
しっかりと受け止めることです。
そうすれば、
自分で自分の行動を制御できる
自律した大人になれます。
今のタイの人々の多くは、
精神的に子どもなのだと思います。
愛国無罪と言って略奪や破壊を行った
どこかの国の人と同じです。
反日なら法に従わなくても良いとして、
おかしな判決を下すどこかの国と同じです。
でも私は、
そういう精神的に幼いことを
悪いこととは思いません。
子どもが幼いのを見て、
悪いと思う人はいないでしょう?
それと同じです。
悪いと言って責めるのは、
自分も同じくらいの精神レベルだからです。
そうやって子どものケンカは
繰り返されるのですから。
他人ごとを自分ごとにできる
自律した大人なら、
子どもは可愛いものなのです。
それはかつて、自分や自分たちが
通ってきた道なのですから。
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