本当に出会えば人間の屑にはなりません

本当に出会えば人間の屑にはなりません

こんにちは!

ヒザが痛いので金気功を受けてきた
赤木です。

金気功と言うのは、
金粉を使ってツボを刺激するもので、
「つぼやクリニック」で鍼灸師の野村先生が
行っているものです。

この金気功を世界に広めようと
されてるとのこと。

もし機会があれば、
一度受けてみてはどうでしょうか。

本当に驚くほどよく効きます。

さて、今日は子どものことです。

ブログにも書きましたが、
ちょうど東井義雄先生の本を読んだのです。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/379215332.html

その中で、
とても印象深いエピソードがありました。

鈴木道太先生が書かれた本にあったとして、
東北のPTA会長さんの述懐について
話されたものです。

そのPTA会長さんの長男が
小学校3年か4年のとき、
仏壇の前に置いてあった小銭を盗って、
買い食いをしたのだそうです。

ちょうど外出先で面白くないことがあって
むしゃくしゃしていたとき、
その報告を奥さんから受けたのだとか。

それで怒りにまかせて息子さんを叱責し、
体にわからせてやろうとして、
水を5杯かぶせると言われたのだそうです。

外は粉雪がチラつく零度近い寒い夕方です。

奥さんはびっくりして、
泣いて止めたのだそうです。

心臓麻痺で息子さんが死ぬんじゃないかと、
本気で心配されたのでしょう。

しかしPTA会長さんは言うことを聞かず、
息子さんの服を脱がせて
パンツ1枚にしたのだとか。

でも、つづけてこう言ったそうです。

「しかしなあ、
お前がそういう悪いことをしたのは、
お前が悪いだけじゃぁない。
そういう悪いやつを育てたお父さんにも
責任がある。
だから、お父さんは今から水を五杯かぶる」
(p.143)

自分もパンツ1枚になって
息子さんを連れて外に出ました。

そして池の氷を割って、
バケツで5杯の水を自らかぶったそうです。

心臓が止まりそうな冷たさだったとか。

ところがそのとき、
水をかぶる自分の前で息子さんは、
ブルブル震えながらも
しぶきを避けようともせずに、
涙を流して立っていたそうです。

そのとき、
「これは、俺の血を分けた
大事な息子なんだぞ」(p.144)
と、心の底から感じたと言います。

それから心を鬼にして、
息子さんにまず3杯水をかけ、
残りはバケツ半分くらいを2杯かけ、
約束通りの5杯にしたそうです。

終わると、
息子さんを抱きかかえて風呂場に駆け込み、
乾いたタオルでゴシゴシと、
息子さんの体を拭いてやったのだとか。

すると息子さんもタオルを持って、
お父さんの腹をこすってくれたそうです。

感極まって息子さんを抱きしめて、
男泣きに泣いたと言います。

それから息子さんは、
投げておいても自分のものでないお金には、
手を触れない子どもになったそうです。

これが「本当に出会うこと」だと、
東井先生は言います。

ただ口先で、
ああしろ、こうしろと言ったって、
それは出会ってないから聞かれないのだと。

「この子は本当は素晴らしい存在なのだ」
と心から信じ、本音でぶつかるなら、
必ずその気持ちは通じるのです。

これと似たような話を、
私も以前、聞いたことがあります。

盗み癖のある子どもを罰するために、
父親が細い竹のようなもので
叩こうとしたのだそうです。

息子は目をつぶっていました。

あれ、相当に痛いのです。

「ビュッ!パシーン!」

音が響きます。

しかし、息子は痛みを感じません。

恐る恐る目を開けると、
お父さんは自分の手を叩いていたのでした。

「こんな息子に育てたのは、
親の自分が悪いからだ。
だから自分で自分を罰する。」

そう言ってミミズ腫れになるほど、
自分の手を叩いたのだそうです。

息子は泣いて止めました。

「ごめんなさい。もうしません。
もうしませんから、やめてください。」

親子が、本当に出会った瞬間です。

私の場合、そういう出会いは
なかったように思います。

ブログにも少し書いてありますが、
一方的に叱られただけです。

叱られて謝ったときでも、
ただ怒られるのが嫌で、
「ごめんなさい」と言っただけです。

本気で悪いとは思っていませんでした。

盗人にも三分の理と言うように、
自分にも言い分があると思っていたのです。

本当に出会うには、共感が必要です。

どんなに自分と違うと感じていても、
絶対につながっていると信じる心が
大切だと思うのです。

斎藤一人さんが言うように、
「それはわかるよ」と
まず言ってあげることですね。

どんな悪人だって、最初から悪いことを
したかったわけではありません。

自分が受け入れてもらえない恨みから、
復讐しているだけなのです。

それは裏返せば、
「もっと自分のことを受け入れてよ」
という叫びなのです。

「愛してほしい」という
耐え難い思いなのです。

私は、ブログにも書いたように、
愛に飢えた少年時代を過ごしました。

見た目には
恵まれた家庭に見えたでしょうけど、
感じ方は人それぞれなのです。

だから、他人の目を気にするような、
臆病で傷つきやすかったのです。

これはもう、
ちょっと心理学を学べばわかることです。

でも今、
愛されなかったと感じていたことを
恨む気持ちはありません。

なぜなら、
私がそういう家庭で育ったのは、
私にとって必然で無駄のないことだと
わかっているからです。

むしろ、それは私が望んで育った
環境だとすら考えています。

きっと私の魂は、
この人生でそれを体験したくて、
その環境を選んだに違いないのです。

そのお陰で私は、
ここに書いたようなことが
よくわかる人間になれました。

私自身が悩み、
苦しんできた体験があるから、
本当に出会うことの素晴らしさが
わかるのです。

そういう意味で私は、
完璧な家庭で育ちました。

完璧な親子関係、完璧な家族関係、
完璧な人間関係を体験してきたのです。

そのことを、
とても有り難いことだと思っています。

おそらくみなさんも、
そうではありませんか?

もし今、そう感じないとしても、
いつかそう理解される日が来るでしょう。

すべての人が、そうなるのです。

なぜなら、
私たちは「ひとつのもの」だし、
この世には愛しか存在しないから。

私たちは進化成長し、
喜びに浸るために生きているのです。

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