考え方は人それぞれでいいの?
- 2013.08.24
- 2013年
こんにちは!
ついに本を出版した
赤木です。
と言っても、電子出版ですけどね。
Kindleの電子書籍が
簡単に出版できると聞いて、
さっそく試してみたというわけです。
詳細は、ブログをご覧ください。
http://4awasejsn.seesaa.net/article/372754840.html
さて今日は、前回の続きになります。
前回は、
「考え方」とか「価値観」というものは、
人それぞれだという話でした。
特に多くの人が譲れないと考えている
倫理観とか善悪の価値観について、
それでも人それぞれだという事実を
様々な事例をあげて説明しました。
盗むことも、殺すことも、
それが正当だと考える人はいます。
その最たるものが戦争で、
互いに自分たちこそが正義だと言い合って、
殺し合い、略奪し合っています。
その事実を、
まずは受け入れることが重要だと
私は思います。
そこで次に、
「それでいいのか?」
という問題が出てきます。
考え方や価値観が違うから、
様々な問題が出てくるのではないか、
とも考えられるからです。
これについて、
今回はお話することにします。
よく考えていただきたいのですが、
善悪の価値観さえも人それぞれなのです。
と言うことは、
そういう価値観が異なっていて良いのか
という疑問の答も、
人それぞれということになるでしょう。
「人それぞれ」という意味は、
それぞれの人は自由だということです。
そもそも人は自由なのです。
権利として自由を与えられたのではなく、
その本質が自由なのです。
誰に縛られることなく、
自分の自由で考え、自由に意思決定します。
言動は制限されることがあるでしょうけど、
思考は自由なのです。
そういう自由が本質である人を、
何かで制限しようとすることが、
自然に反することだと思うのです。
自然に反すればどうなるかと言うと、
上手く行かないということになります。
たとえば重力がある中で、
物が上から下へ落ちるというのは自然です。
その自然に反して、
物を下から上に上げようとしても、
なかなか上手くいきません。
上から下へ移動させる方が、
簡単で楽なのです。
その方が上手く行きます。
ですから同じように、
人の本質に逆らうことなく、
自由にさせた方が上手く行くはずです。
一見すると、
制限した方が社会が安定するように
感じるかもしれません。
しかし、それで上手く行かないことは、
すでにこの社会の現実が
示していることではありませんか。
締め付ければ締め付けるほど、
反発が強まるのです。
では、自由にすれば上手くいくと、
どうして言えるのでしょう?
その答は、
人のもう1つの本質にあります。
その本質とは、愛です。
人の本質は愛なのです。
ですから自由になれば、
人の心は愛が支配するのです。
自由にさせないから、
愛が表に出なくなってしまうのです。
人の本質である愛が表に出ないのは、
不安にとらわれているからです。
不安とは、愛の対極です。
ですから、
心が不安でいっぱいのとき、
人は自由でいられません。
愛は引っ込むしかないのです。
心には、
同時に1つのものしか置けません。
極論すれば、
愛か不安のどちらかです。
盗みを働くとき、
心にあるのは不安ではありませんか?
「だって景気が悪いんだから、
盗みでもしなきゃ食えないだろ!?」
そう言い訳をする時、
その理由は不安が引き起こしたものと
言えるのではないでしょうか。
戦争だってそうです。
「エネルギーを補給できなくなったら、
国民が困窮してしまう。
だったら今、戦いに活路を見出すべきだ。」
そう言って防衛のための戦争を始めるとき、
心には不安があるのではありませんか。
不安は、人の自由を奪います。
何かに依存させ、執着させるのです。
悪くなるかもしれない。
何かを失うかもしれない。
そういう不安が心にあるとき、
人は愛と反対の行動を取るのです。
では、
もし不安がなかったらどうでしょう?
仮に不安がないとしたら、
それでも盗むでしょうか?
それでも殺すでしょうか?
不安がないと言うことは、
必要性がないということです。
経済的に困るという不安がなければ、
財産を蓄える必要性がありません。
命を失う不安がなければ、
命を守る必要性がありません。
ですから愛は、
すべてを投げ出すのです。
映画の
「ブラザー・サン・シスター・ムーン」
を観たことがありますか?
聖フランチェスコは、
家にある財産を放り出して、
無一物になることを望みました。
気が狂ったのかと他の人は思いましたが、
本人は違います。
心が豊かさで満たされていたのです。
「もう充分だ。
私はもう何も必要ではない。」
そう感じていたから、
すべてを放り出したのです。
愛とは、
何かを必要とすることではありません。
ですから、
他の誰かから愛されることさえ
必要ではありません。
「I love you.」と言った後に
「I need you.」と言うのは、
矛盾しています。
そのことに気づかないから、
多くの人が愛を勘違いしています。
愛は何も必要としないから、
相手を自由にします。
「あなたのためを思うから、
がみがみ言うんじゃないの!」
そう言って子どもを叱る親は、
子どもを愛していません。
どうして子どもの自由に
させないのですか?
子どもに特定の何かをさせる必要性を
感じているからでしょう。
その必要性は、
不安から来ているのではありませんか?
子供の将来が心配だ。
子どもが良い大学に入らなかったら、
近所の人から自分が
バカにされるのではないかと不安だ。
そんな不安から、
子どもを思い通りにさせたいのでしょう。
ですから、
愛が引っ込んでしまうのです。
必要性を極力手放して、
自由になることです。
完全に手放すことが難しいとしても、
なるべく必要性を棄ててみましょう。
不安に感じるとき、
「その必要性は本当か?」
と、自分に問うてみるのです。
そうすれば、
少しずつ本性である愛が現れます。
言うことをきかない子どもにも、
そっと見守ろうと思えるようになります。
「なあに、この子はこの子で、
何とか上手くやるだろう。」
子どもへの信頼感が出てくるでしょう。
愛が現れたなら、
もっと素晴らしい存在になりたいと
思うはずです。
そういう素晴らしさを表現するために、
できるだけのことをしたくなるはずです。
それが人の、生きる動機です。
目的です。
ですから、
ある特定の価値観で
他人を縛る必要性はないのです。
それよりも、
その人が不安を抱いているなら、
その不安を取り除いてあげることが
大切です。
不安を感じなくても良いのだと、
教えてあげることです。
心を癒してあげて、
不安は幻想だと
気づかせてあげることです。
そうすれば、
特定の価値観を押し付ける必要は
ないのです。
その人が、その人の考え方で、
より素晴らしい人になろうと
するのですから。
もちろん、だからと言って今すぐ、
刑罰を廃止せよとか、
戦力を放棄しろと
言っているわけではありません。
人の心に不安がある間は、
どうしてもその不安から、
他者を傷つける行為を
してしまうからです。
時にはその暴力を止めるために、
暴力を用いることも必要でしょう。
しかし、
相手がもう暴力を
振るおうとしていないのに、
こちらが暴力を振るう必要は
ありません。
もしそれをするなら、
こちら側にまだ不安がある証拠です。
他人に不安を棄てることを求めるなら、
まず自らの不安を棄てることです。
自らが必要性を棄てることです。
何が起ころうともかまわない。
人生は上手く行くようになっている。
そういう気持ちで生きることです。
そのことを、
脳障害を負ったわずか8歳の子どもが
言っています。
日木流奈(ひき・るな)くんです。
ブログにも書きましたが、
「月のメッセージ」という本に、
そのことが書かれています。
http://4awasejsn.seesaa.net/article/372666802.html
8歳の、しかも脳障害の子どもが、
そういうことを言っているのですよ。
ましてや、ほとんどの人は、
彼よりも多くのことができます。
それなのに、
何を不安に思う必要があるのでしょう?
必要性を捨て、
不安が幻想だと見抜くなら、
愛が現れてきます。
心が愛に満たされたとき、
もう何も必要とは感じなくなるでしょう。
もっともっと素晴らしい人になろうと、
最大限の努力を喜んでするでしょう。
誰から認められなくてもかまわない。
ただ自分がそうしたいからするだけ。
人生は、
幸せに満ちたものになるはずです。
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