体罰は教育に必要ですか?
- 2013.08.05
- 2013年
こんにちは!
先日の朝、やっと妻が戻ってきた
赤木です。
危うくアイロンがけまで
させられるところでした。(笑)
詳細はブログの方に書いてますので、
そちらもご覧くださいね。
さて、
今とってもホットな話題があります。
また体罰絡みですが、
クラスメイトをナイフで脅した児童の
頭を叩いた校長が、
戒告処分を受けたというニュースです。
この市教委の対応に対して、
校長を擁護する意見が殺到しているとか。
このくらいは躾の範囲だとして、
愛のムチを認める人が多いようです。
この問題については、
市教委の処罰が妥当かどうか
という問題はあります。
しかしここでは、
その部分については触れません。
ここで取り上げたいのは、
校長が行った行為は教育と言えるかどうか、
という点についてです。
結論から申し上げると私は、
それを教育だとは思いません。
どんなに程度が軽いとは言え、
叩くことは暴力です。
まず、言葉の定義をしなければなりません。
私が暴力と呼ぶのは、次のようなことです。
ある特定の価値観や考え方、
または行為を強制する目的で、
他人に苦痛や恐怖心を与えること。
つまり、相手が自由意志で
そうすることを選択するのではなく、
苦痛や恐怖心によって、
無理やり押し付けられることです。
その苦痛や恐怖心を与える手段が、
暴力だと考えます。
相手の自由にさせない、
という点がポイントになります。
それに対して教育とは何かと言うと、
次のようになります。
相手の自発性や自律性を促し、
相手の成長を助けること。
つまり相手の自由意志で考えさせ、
行動させる中で成長させることです。
このように、
暴力と教育はまったく違うばかりか、
真逆のことである考えています。
暴力と教育は、強制と自由ほどに、
価値観が違うものなのです。
それで今回の校長の行為をみると、
校長はナイフを持ち込んだ少年と、
それを先生に通報しなかった複数の少年を、
校長室に呼んで頭を平手で叩いた
ということになっています。
つまり、緊急避難的に
ナイフの危険から何かを守るために
力を行使したのではなく、
いわゆる躾として叩いたことがわかります。
これはどういうことかと言うと、
「ナイフで脅してはならない」とか、
「先生から言われたことに従え」という
価値観を強制しようとして、
少年に苦痛を与えたのです。
今度やったらまた
苦痛を味わうことになるぞと脅して、
恐怖心でその行為をさせないように
したのです。
これを先ほどの定義に当てはめると、
教育であるとは到底思えません。
完全に暴力です。
どんなにその価値観が、
ある人にとっては絶対的に正しいものでも、
相手の価値観に反しているなら、
押し付けに過ぎません。
強制しようとして苦痛を与えたなら、
それは暴力なのです。
では、教育ならどうしたでしょうか?
自発性や自律性を重んじるのであれば、
まずその少年たちに、
なぜそうしたのかを尋ねるでしょう。
少年には少年なりの理由があったはずです。
それがどんなに校長にとって
納得できないものであったとしても、
その少年にとっては正しいことなのです。
だから少年は、
その理由(自分の考え方)を根拠に、
ナイフで脅すという行為に出たのです。
周りの仲間たちも同様に、
先生に通報しないという選択をしたのです。
ただ、その行為によって、
目的が達成できたかどうかは別問題です。
その行為をする前は、
その理由は少年にとって正しかったのです。
それで目的を達成できると、
考えていたはずです。
でも実際にやってみた結果は、
目的通りになったでしょうか?
そこを感じさせるのです。
そこを考えさせるのです。
もし上手くいってないとするなら、
どこが間違っていたのかを一緒に考えます。
他の考え方はできないのか、
どうすればもっと良くなるのかを、
一緒に考えてあげるのです。
そして最終的に、どうするのが良いかを、
少年自身に決めさせます。
自分の体験から学ばせる。
たいへんかもしれませんが、
それが教育というものだと思うのです。
「ナイフで脅すのは悪い。」
「先生の言いつけは守るべきだ。」
それは、その校長の価値観です。
もしその校長が少年の立場だったら、
同じことをやらなかったと
言い切れるでしょうか?
考え方は人それぞれです。
同じ人でも時と場合によって変わります。
立場や事情が異なれば、
考え方や価値観は変わるのです。
その事実を認めない限り、
人はいつまでたっても
正しいのは自分で、
相手が悪いと言い張るでしょう。
もし人によって違うことを前提とするなら、
苦痛を与えることで価値観や考え方を
強制することなど、
とてもできないはずです。
自分が正しく、相手が間違っている。
そう決めつけているから、
平気でそれをやってしまうのです。
今回の事件で校長は、
少年たちに手本を示しました。
相手に苦痛を与えることで
自分の価値観を強制することは
正しいことだ、という手本です。
そして、この考え方が
世界中に蔓延しています。
これまでの大人たちが、
そうやって子どもを教育してきたからです。
そして子どもたちは、
大人がやることを真似ます。
自分が正しい。世間が間違っている。
だから暴力を奮ってもかまわない。
だから日常から暴力はなくならないし、
世界的にも、いたるところで
暴力の応酬が繰り広げられています。
お互いが、
自分こそが正義だと言い合って。
そんな社会が、
私たちの望みなのでしょうか?
暴力によって相手を強制しようとしても、
これまでと同じことを繰り返すだけです。
いや繰り返すだけでは済みません。
昔よりはるかにパワーアップした武力は、
人々や社会、この地球さえも、
簡単に滅ぼしてしまうでしょう。
ブログで「子どもへのまなざし」
という本を紹介しました。
子育てのバイブルと言う人もいるほど、
お母さん方から評価されている本です。
その本でも、
子育てに重要なのは愛することであって、
強制することではないと書かれています。
それなのに、まだ多くの人が
「愛のムチ」を信じているようです。
自分が正しくて相手が間違っているという
偏狭な正義感を捨てない限り、
暴力は有効であり続けるでしょう。
そして、暴力が有効だと信じている限り、
平和な社会はやって来ません。
今はまだ、私のような考え方をする人は
少数派のようです。
しかし私は、
これを訴えずにはおられません。
批判されようと、無視されようと、
本当の教育を行わなければ、
私たちの社会は平和にはならないからです。
もちろん、だからと言って、
私の考え方が絶対的に正しいとか、
もっとも優れているなどと
言うつもりはありませんよ。
それに、私の考えを、
他の人に押し付けることもありません。
ただこれも1つの考えとして、
私の考えを表明するだけです。
人は、自分がなりたいものになるのです。
自分が選びたいように選ぶのです。
その自由こそが人の本質であり、
永遠に真実だと思うからです。
あなたがどう考え、どうするかは、
あなた自身が選択すること。
願わくばその選択によって、
上手くいくのかどうかを
しっかりと検証してほしいと思うのです。
それは、あなた自身が幸せになるために
もっとも有効なことでしょうから。
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