愛とは自由です
- 2013.12.09
- 2013年
こんにちは!
母の誕生日祝いにメッセージを贈った
赤木です。
今日は、私の母の86歳の誕生日です。
数日前の5日が、
タイ国王の86歳の誕生日でした。
奇遇にも同じ年なのですね。
今は、インターネットが普及しているから、
メールでメッセージを送れます。
本当に便利な世の中だと思います。
ちゃんとプレゼントも贈りましたよ。
母が好物のイクラをネットで注文し、
期日指定で送りました。
パソコンがあれば何でもできる、
素晴らしく便利な時代だと思います。
さて今日は、
「愛とは自由だ」というテーマです。
先日、「神との対話」シリーズの著者、
ニール・ドナルド・ウォルシュ氏の
最新刊の本を読みました。
「人類との対話1」です。
詳細はまだ未消化なので、
ここでは触れません。
ただ1つ、
心に残ったフレーズがありました。
「いつでも心に留めておきなさい
愛とは自由であることを
愛を定義するためにこれ以上の言葉は必要なく
愛を理解するためにこれ以上の信念は必要なく
愛を表現するために
これ以上の行動は必要ないということを」
(p.398)
おそらく、「愛=自由」だと言われて、
ピンとくる人は少ないと思います。
なぜなら、
そういう定義をしていないからです。
よく言うことですが、英語では
「I love you.」と言ったあとに、
「I need you.」と言ったりします。
つまり、誰かを「愛する」ということは、
その誰かを「必要とする」ことと
同義なのです。
でも、それって自由じゃないですよね?
誰かを「必要とする」ということは、
その誰かに依存するということです。
依存するということは、
それを手放さないために
自分を抑制しなければならない
ということになります。
簡単に言えば、
アルコール依存の人は酒を手放せません。
つまり、酒を飲まない自由がないのです。
このことが実際に、
世間ではよく行われています。
「あなたは、
私と仕事とどっちが大事なの?」
かまってもらえない妻が、
仕事中毒の夫に対して、
ヒステリーを爆発させた場面です。
妻にとっては、夫にかまってもらうことが
「必要」なのです。
その「必要」を満たしてもらうことが、
「愛されている」ということなのです。
でもそれは、夫にとっては
「自由」の侵害ですよね。
このケースでは、夫は仕事をしたいのです。
もし妻が夫を「愛している」なら、
夫の自由をどうして認めないのでしょう?
この矛盾に気づかないから、
人は「愛」という言葉を振りかざしながら、
愛とは正反対のことをしてしまうのです。
今日、読み終えた斎藤一人さんの本に、
そのことがバッチリ書かれていましたよ。
「地球が天国になる話」です。
一人さんは、すべての問題の元凶は、
劣等感にあると言います。
劣等感とは、
今のままの自分じゃ価値がない
と感じる心です。
価値がないままだとつらいから、
価値があるフリをして虚勢を張ったり、
罪悪感を抱いたりします。
そうやって、
他の人から価値を与えてもらおうとします。
つまり、
愛されることに依存するのです。
ところが人は未熟なために、
大切な人に劣等感を植え付けてしまいます。
つまり子育てにおいて、
間違った育て方をするのです。
たとえばテストの点が悪かった時、
母親が「がっかりした顔」を見せると、
それが子どもを傷つけ、
劣等感を抱かせるのです。
子どもを愛することより、
自分の劣等感が癒やされることを
優先しているからです。
こうして、劣等感を持つ人が、
劣等感を持つ人を作り出すという
負の連鎖が続くのです。
もちろん、他にもありますよ。
劣等感の強い父親が、
子どもを激しく怒るというのもそうです。
穏やかに「こうしてね」と言えばすむのに、
「おまえはどうしてそうするんだ!」と
烈火のごとく怒ります。
こうして自分の偉大さを見せつけることで、
一時的に劣等感を忘れようとします。
「だから、お父さんとか親で
劣等感のある人の特徴というのは、
愛という名の暴力を振るう。」(p.38)
このように一人さんは言い切っています。
「愛しているから叱るの。」
これが「愛という名の暴力」です。
愛の押し付けとも言えますね。
いずれにせよ、これは愛ではありません。
よく似ていますが、まったくの偽物です。
では、本物の愛とは何かというと、
最初に戻りますが、自由なのです。
相手を自由にさせることなのです。
どうなるかは相手の自由ですから
相手のあるがままを受け入れ、
それを好きになることなんです。
学校の成績が悪くても、
「それでも好きだよ」
「無理に良くならなくても大丈夫」
って言うのが本当の愛なのです。
私の生い立ちはブログにも書きましたが、
臆病で傷つきやすい子どもでした。
そこには、
厳しかった父親の影響もあったでしょう。
それとともに、異常に世間体を気にする
母親の影響も大きかったと思います。
でも、その一方で、
私は比較的に自由にさせてもらいました。
これは矛盾するようですけど、
実際にそうなのです。
ただ縛り付けられただけではなく、
ある面ではとても自由だったのです。
特に私の進路に関しては、
親はほとんど何も言いませんでした。
せいぜい大学には進んでほしいと
言ったくらいでしょうか。
ただし経済的な条件から、
国公立限定でしたけど。(笑)
それに関しては母親が言っただけで、
父親は何も言っていません。
最初の大学を中退して、
別の大学に入ることを決めた時も、
親は私の自由にさせてくれました。
「せっかく大学に行かせてやったのに…」
なんて恨みがましいことは、
ひとことも言いませんでした。
就職の時も、何も言いませんでした。
少し寂しいくらいでしたが、
本当に何も言わずに
自由にさせてくれたのです。
そのことには今でも、
心から感謝しています。
たしかに、
劣等感を植え付けられたとも言えますが、
一方で自由にさせてくれたのです。
私は今、
自分でそういう環境を選んで
生まれてきたんだなあと
つくづく感じています。
これは上記の本で
一人さんも言っていますが、
人は自分で選んで生まれてくるのです。
だから、どんな環境であっても、
被害者ではありません。
だって、自分が選んだんですから。
むしろ、それはチャンス(機会)を
与えていただいたのです。
わざわざ心を鬼にして私のために、
劣等感を抱かせるようにしてくれた
親という魂がいたのです。
それが本質的な世界の、
真実の姿だと私は思っています。
そういう環境で育ってきたからこそ、
「愛=自由」ということが
体験的にわかる人間になれたのだ
と思います。
これがわかったとき、
私は本当に嬉しかったことを覚えています。
感動したのです。
わけもなく涙が流れ、
私の魂がこう言っている気がしました。
「よく見つけてくれたね。
これが私だよ。
これが本当の私なんだよ。」
私は、いえ私たちは、
愛という存在なのです。
そして自由という存在なのです。
これが本当に体験的にわかったら、
すべての個人的な問題が解決します。
そして多くの人がわかったら、
すべての社会的な問題が解決します。
すべての人がわかったら、
一人さんが言うように、
地球が天国になるのです。
私はそのことを、確信しています。
愛は自由です。
愛は手放します。
なぜなら怖れないから。
怖れ(不安)とは、愛の対極です。
私たちは愛であり、自由であり、
進化成長(変化)し続ける生命でなのです。
このことを私は、
これからも伝えていきたいと思います。
母の誕生日に、
私を産み育ててくれたことに感謝しながら、
その思いを強くしました。
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