信念を守ろうとしてしまうことも意味がある
- 2013.11.06
- 2013年
こんにちは!
今日、妻へプレゼントを贈った
赤木です。
結婚2周年ですから、
これまで旅行した時の画像で作った
コラージュを贈ったのです。
と言ってもFacebookを利用して、
PDFファイルを送っただけですけどね。
妻とのやりとりも、
FacebookやLINEをよく使います。
特にLINEのスタンプは、
気持ちを伝えるのにいいですよ。
さて今日は、昨日の続きになります。
昨日は、信念が自分を創っているし、
自己洗脳によってその信念を
守ろうとしているという話でした。
信念を守らなければ、
自分の存在自体が消えてしまう。
その必要性が不安を呼び起こし、
その不安にかられて信念を守ろうとして、
あらゆる方法を見つけるのです。
その必要性は幻想に過ぎない。
昨日、そう言いました。
しかし、
この必要性を感じる気持ちは、
私たちの存在に重要な役割を
果たしているとも。
今日は、そのことについて、
説明したいと思います。
その重要な役割とは何かと言うと、
アイデンティティーを確立することです。
アイデンティティーとは、
簡単に言えば他者との違いです。
自分は自分であって他人ではない。
そういう感覚がアイデンティティーです。
「我思う故に我あり」
有名なデカルトの言葉ですが、
自分の信念を持っていることが
自分の存在を確実にしているのです。
そこで考えていただきたいのですが、
私たちの本質は「ひとつのもの」だと、
私はよく言っています。
「ひとつのもの」ですから、
そこに自他の区別はありません。
時空もないため、
「今」「ここ」しか存在しません。
そういう絶対的なものが本来の姿で、
この世のような相対的な世界は、
架空のもの、つまり幻想なのです。
なぜそんな幻想を創りだしたかと言うと、
神が自分自身を体験的に知るためです。
体験するとは、
自分とは別のものと比較することです。
高いものと比べるから、
自分は低いとわかる。
それが体験です。
それは相対的な世界でないと
できないことなのです。
それで神は時間と空間を創り出し、
自分を細かく分割し、
それぞれに意識を与えました。
さらに忘却によって、
自分が神であることを忘れさせ、
神らしくない考えを持つことを
可能にしたのです。
ここまでの話は、
「神との対話」シリーズなどに
書かれていることです。
私もよくこの話はするので、
すでにご存知な方も多いでしょう。
ただ、ちょっと端折り過ぎているので
わかりにくいかもしれません。
詳細は本やブログなどで
補っていただけると助かります。
こうして個別化された私たちは、
「ひとつのもの」ではなく、
しかも他者とも違うという意識を
個々が持つようになります。
その信念によって、
アイデンティティーが確立されます。
つまり私たちは、
その信念によって存在している
とも言えるわけです。
ですからその信念を守ることは、
個別化された私たちの存在を守ることです。
いつかはまた、
「ひとつのもの」に戻るのですが、
それは個別化された自分の死を意味します。
そして、
個別化された私たちには、
自分を体験するという
重要な目的があります。
それは創造主の意図であり、
この相対的な世界が存在する理由です。
ですから私たちは、
自分の死に抵抗する本能があるのです。
個別化された私たちとして生きて、
自分を体験しなければならない。
その必要性を感じているのです。
しかし、
いつまでも個別化された私たちである
必要性はありません。
十分に体験をしたなら、
また絶対的な領域に立ち返って、
その体験を味わうのです。
また信念そのものを変えても、
アイデンティティーが失われる
というわけではありません。
変わることは失うことではない。
でも私たちは、
時間と空間で制限されているので、
変わるとはそれまでの自分を失うこと
と考えてしまうのです。
少々わかりにくと思います。
なるべくわかりやすくと思うのですが、
どうしても形而上学的な話になると、
とんでもない話に感じられるでしょう。
がまんしてお付き合いいただけると
嬉しいです。
整理するとこうなります。
絶対的な存在は「ひとつのもの」だけです。
そしてそれは、
自らを体験的に知ろうとして、
相対的なこの世を創りました。
そしてそれは実際に存在するものではなく、
幻想に過ぎません。
幻想の世界に生きる私たちは、
自分の信念によって、
個別の存在であることを自分に
知らしめています。
その信念を失えば、
個別化された私たちとして存在できません。
この幻想世界を創った目的からして、
私たちが個別化された存在であることには
意味があります。
そしてそれは、必要なことです。
ですから私たちは、
無意識に自分の信念を守る必要性を
感じているのです。
しかし、
仮に個別化された私たちが失われても、
絶対的な存在である「ひとつのもの」が
損なわれることはありません。
また個別化された存在を支えている
信念を変えたとしても、
その存在が消失することもありません。
私たちは相対的な存在として、
ただ変化するだけなのです。
それなのに変化を消失と考えるから、
変化させまいとしてしがみつきます。
もしこのことを理解するなら、
自分の信念を守る必要性が、
それほど重要なことではない
とわかるはずです。
仮に信念を捨てて、
個別化した自己が失われても、
たいした問題ではありません。
それに信念を捨てる必要はなく、
ただ変えれば良いだけです。
だから、
信念を守る必要性は幻想なのです。
そして、
その必要性が幻想だと見抜くなら、
私たちは自分の信念を、
自分の意思によって
変えられるようになります。
つまり、
今の信念にしがみつかなくなるのです。
そのときの自分にとって、
もっともふさわしい信念を選べるのです。
そして新たに選んだ信念によって、
自分らしい自分に変われるのです。
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