人生は自分を進化成長させる旅です

人生は自分を進化成長させる旅です

こんにちは!

まだ妻へのプレゼントを買ってない
赤木です。

もうすぐ結婚2周年なのですが、
まだプレゼントを用意していません。

10月の帰省旅行で散財しちゃったし、
そのときにあれこれ買ってあげたので、
もういいかな、なんて気持ちも・・・。

うーん、どうしよう。

まだ決めかねています。

さて今日は、
人生と旅の関係についてです。

ブログにも書いたように、
また喜多川泰さんの小説
「ライフトラベラー 人生の旅人」
を読みました。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/379351639.html

ここでは人生を旅にたとえていました。

なるほどと思いましたね。

ちょっとネタバレになりますが、
読んで気づいたことをシェアします。

人生を旅にたとえることは、
もちろん、喜多川さんのオリジナル
というわけではありません。

他にも旅にたとえた人はいますし、
前に紹介した雲黒斎さんの
「あの世に聞いた、この世の仕組み」でも、
ツアーにたとえていましたね。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/373718213.html

ただ喜多川さんの小説で感心したのは、
自分の能力を持ち物にたとえてあった
ということです。

旅に出る時、
持ち物が少ない方が良いと
登場人物の夏輝は言います。

なぜならそれによって、
普段の自分にはできない経験を
することができるからと。

たとえば普段の生活では、
歯ブラシやヒゲ剃りは揃っているでしょう。

だから多くの人は旅に出る時、
それを持って行こうとします。

旅先で不自由をしないためです。

でも、もしそれを忘れたら、
本当に困るでしょうか?

おそらく何とかするでしょう。

お金があれば買うだろうし、
お金がなくても必要なら、
もらうか交換するか、
何らかの方法を考えるはずです。

そうすることによって、
非日常の体験ができます。

そしてその体験こそが、
自分自身を進化成長させてくれるのです。

だから夏輝は、
経験こそが財産だと言います。

経験を積むことで、
自分が成長するからです。

その経験をするために旅に出るのに、
どうしてそこに多くの日常を
持ち込まなければならないのか?

そう問われれば、
たしかにそれはおかしなことです。

経験をしたくて旅に出るなら、
日常が少なければ少ないほど良い。

それは当たり前のことですよね。

旅するときの持ち物は、
人生においては能力だと、
喜多川さんは言いたかったようです。

たとえば耳が聞こえるという能力。
手足を自由に動かせるという能力。

その能力があるのが
私たち本来の姿だとすると、
人生という旅において、
どうしてそれを持って行くのでしょう?

少なければ少ないほど、
素晴らしい体験ができるはずです。

ただし、
すべてを置いて行くわけではありません。

どんなにじゃまになっても、
持って行くべきものもあると言います。

それは、
旅先で出会った人に与えられるもの。

自分らしいもので、
相手に喜んでもらえるものです。

それを与えることで、
相手からも何かを受け取れる。

そういう出会いが旅だと言います。

小説で夏輝は、
持ち物を減らせと言いながら、
ギターは持って行けと言っています。

ギターが一本あれば、
旅先で出会った人に
歌をうたって聞かせてあげられる。

一緒に歌って仲間になれる。

じゃまなように思えても、
そういうものは持って行くべきなのだと。

人生も同じです。

私たちも人生で誰かと出会う時、
何か与えられるものが必要です。

それはおカネのようなものではなく、
その人らしい何かです。

たとえば、
素敵な笑顔というのもありますよね。

仏教では「無財の七施(むざいのしちせ)」
と言います。

優しい眼差しを投げかける眼施など、
与えられるものが誰にもあるのです。

人(魂)はそういうものを持って、
この世に旅立ちます。

そこで、約束した人と出会い、
様々な体験を積んで、
自分自身を成長させるのです。

日木流奈くんをはじめ多くの人が、
生まれる時や環境はすべて、
自分で決めて生まれると言っています。

そうであるなら、
その旅に必要なものが揃ってないことは
あり得ませんよね。

それがどんな体験であっても、
その環境や出会う人を自分が選んでいます。

戦争のときに生まれたのもそうですし、
病気を患うのもそうです。

すべて自分が、
自分のために決めた体験なのです。

そう言うと、
辛く感じる人もいるかもしれません。

「それは私が悪いということですか?
自業自得だとでも言うんですか!?」

そうではないのですよ。

「悪い」のではなく、
むしろ素晴らしいのです。

42.195kmを車で走れば、
わずかに1時間弱です。

それをわざわざ2時間もかけて、
走る人がいます。

苦しいでしょう。大変でしょう。

でもそれは、
その人が「悪い」のでしょうか?

そうではありませんよね。

その偉大な挑戦を、
私は素晴らしいと思います。

車で走ったのでは味わえない体験のために、
あえてその人は走るのです。

大変なら歩いてもかまわないのに、
その辛さに耐えて走るのです。

そう、その人は好きで走っています。

わざわざその困難に挑戦しています。

そうして自分を、
進化成長させようとしているのです。

「でも、病気や障害になったら、
他の人に迷惑をかけるでしょう?
それが耐えられないんです。」

その気持ちはわかります。

でも、
他の人に迷惑を押し付けるなんてことは、
絶対にできないのです。

なぜなら他の人だって、
自分で生まれる環境や出会う人を選んで、
この世に生まれてくるのですから。

その人の同意なしに出来事が起こることは
あり得ないのです。

その人は誰かから、
迷惑をかけられるという体験をしたくて、
それを選んだのです。

だから堂々と迷惑をかけたらいいのです。

その代わり、
感謝の気持ちを持ってはどうでしょうか?

旅先で親切にしてくれる人に出会ったら、
ありがとうと言うでしょう?

自分にできることで、
何かをしてあげたいと思うでしょう?

だったら、そうしてあげれば良いのです。

それこそが、
体験したかったことのはずです。

もちろんこれは、
私の考え方に過ぎません。

みなさんに
押し付けようとは思いませんよ。

どう考えるかは、
みなさんの自由です。

ですからこれは、提案です。

もしこう考えたら、
人生がワクワクしてくると思いませんか?

不安がなくなると思いませんか?

苦だと思っていたものが、
単に挑戦だったと思えませんか?

人はみなそれぞれに、
自分自身の挑戦を楽しんでいます。

お釈迦様は、
そのことを悟られたのだと思います。

この世はすべて、ものの見方に過ぎない。

だから、どこかに
天国を探しに行く必要はないのです。

今あるその場が天国なのです。

ですからイエス・キリストは、
そう何度も言っています。

私たちの心に天国をつくるとは、
ものの見方を変えることなのです。

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