幸せになるための条件はありません

幸せになるための条件はありません

こんにちは!

昨日、妻に頭を刈ってもらった
赤木です。

1.5mmで刈ってもらうようにしたので、
まるでお坊さんみたい。

スッキリしました。(^_^)

さて、前回のメルマガで、
乙武洋匡さんのことを書きました。

その乙武さんの名言に、
こんなものがあります。

「障害は不便だが、不幸ではない。」

なかなか言えることではありませんが、
しかし、その通りだと思います。

人は誰も、たとえ障害者でないとしても、
不便なことはたくさんあります。

前回のメルマガにも書いたように、
昔の人は容易にアメリカへ行けません。

現代なら飛行機で簡単に行けるのに。

昔の人は、不便だったわけです。

また年をとれば、
若者が容易にできるようなことが、
簡単にはできなくなります。

これなども、不便なことですよね。

私も子どものころ、
針の穴に糸を通す手伝いをしました。

子どもの私には容易なことが、
母親には難しかったのです。

今、私も母親の気持ちがわかります。

さすがに視力が衰えました。(泣)

けれど、不便だからと言って、
不幸なわけではありません。

不便な自分を嘆くから、
不幸になるだけなのです。

不便をチャンスと思えば、
その人にとっては幸せになります。

要は捉え方次第だと思うのです。

ではどう捉えるのが良いかというと、

「ありのまま受け入れる」

ことなのです。

このことについても、
乙武さんの有名なエピソードがあります。

乙武さんのと言うより、
乙武さんのお母さんの、
と言った方が正しいかもしれませんね。

乙武さんは、生まれた時から
手足がありませんでした。

医師は、母親にショックを与えまいとして、
その事実を隠します。

そして1ヶ月後、万全の準備をした上で、
お母さんに赤ちゃんを見せたのです。

そのときの、お母さんの第一声が、
とても感動します。

「かわいい」

手足がない我が子を見た時、お母さんは、
そのすべてを受け入れたのです。

※このエピソードには後日談があり、乙武さんはおくるみに包まれていたため、お母さんは手足がないことに気づかずに言ったのだそうです。(2020年10月12日追記)

これはやや特殊な感じがしますが、
一般的にこういう傾向はあります。

たとえば、
他人からは猿にしか見えない赤ちゃんを、
親は「かわいい」と言います。

「どう見ても不細工でしょ?」

そう思える子どもの写真を、
「ねえ、かわいいでしょ?」
などと言って嬉しそうに見せます。

これを親バカと言いますが、
それが本来の姿だと思うのです。

愛は、すべてを受け入れます。

何の条件もつけないのです。

また愛は不安の対極です。

ですから否定的な見方をしません。

つまり、心に愛があれば、
そこには否定するものは何もないのです。

ただあるがままを受け入れ、
あるがままを喜べるのです。

心が愛で満たされている時、
その人は幸せでないことがあるでしょうか?

そんなことは不可能です。

だとすれば、
私たちにとって重要なことは、
ただ愛であることではないでしょうか。

愛であるために、何の条件も要りません。

ただ愛であろうとすれば良いだけです。

つまりそれは意思の問題です。

愛であれば幸せでいられます。

逆に幸せでいるなら、
愛であることが可能なのです。

よく、「運命の人と出会いたい」
と言う人がいます。

でも、探さなければ見つからないような
「運命の人」など、どこにもいませんよ。

逆に言うなら、出会った人はすべて
「運命の人」なのです。

これも単に意思の問題です。

出会った人を
「運命の人」と受け入れるなら、
その人は「運命の人」になります。

それなのに、誰か(=神,守護霊)が
運命の人に会わせてくれるなどと思い、
これが運命の人かどうかと悩むから、
なかなか愛でいられません。

何度も言うように、愛は無条件ですよ。

相手がどうだからとか言うなら、
それは愛するのに
条件をつけていることになります。

相手が素晴らしいから愛するのではなく、
ただ愛すると決めたから愛するのです。

みなさんは、
ご自身の現状を受け入れていますか?

たしかに、思い通りにならないことは
たくさんあるでしょう。

でもそれは、乙武さんが言うところの
不便に過ぎません。

その不便を嘆くか、
逆に嘆かずにチャンスと見るか、
それを決めるのは自分の心です。

自分の意思で、
どうにでも決められるのです。

病気も同じです。

病気にかかったことを嘆くから、
不幸になるのです。

いっそのこと、病気になったことを
喜んでみてはどうでしょうか?

冗談で言っているのではありませんよ。

もし、
病気になったことを喜ぼうと思えば、
必ずその理由が見つかります。

病気になったからこそ、
得られるものがあるからです。

そのことに対して、
涙を流すほど感謝したことがありますか?

少女パレアナは、
クリスマスプレゼントに
松葉杖をもらいました。

普通に歩いて走れるパレアナに、
松葉杖は不要です。

「かわいい人形が欲しかったのに・・・。」

でもパレアナは、そこでも
父親に教えてもらった何でも喜ぶゲームを
しようと考えます。

「松葉杖をもらって喜べること・・・。」

パレアナは、
松葉杖が要らない自分であることに
気づきました。

松葉杖が必要な人と比べて、
自分がどんなに恵まれているかを、
それによって気付かされたのです。

幸せになるのに、条件はありません。

ただあるがままを受け入れ、
喜べば良いだけなのです。

しかしその試みを、
不安が邪魔をすることでしょう。

そういうときこそチャンスです。

不安と決別するチャンスなのです。

しっかりと不安を見つめましょう。

不安は幻想に過ぎませんから、
見つめれば消えてなくなる他ありません。

不安から逃れようとするから、
不安が力を持ち、存在し続けるのです。

現れる不安でさえ、そのまま受け入れる。

愛の前では、
すべてのものが喜びの対象となります。

愛とは、そういうものなのです。

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