人生は壮大なRPGだった

人生は壮大なRPGだった

こんにちは!

今朝は雨が降っていたので、
「気持いいね」と植木に声をかけてきた
赤木 篤(あかき・あつし)です。

もう朝晩の日課になっちゃいました。

鉢植えの観葉植物たちとの会話です。

ちゃんと名前までつけて呼んでるんですよ。

詳しくはブログをご覧くださいね。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/375220538.html

さて、唐突ですがみなさんは、
ゲームはお好きですか?

私はけっこう好きなんですよね。

テレビゲームと呼ばれたゲーム機で、
ファミコンやスーファミのころ、
寸暇を惜しんで遊びました。

有名なドラクエやFFなど、
年末年始の休暇に徹夜でやったことも。

それこそ24時間耐久ゲームです。(笑)

あれ、やってると
目が痛くなるんですよね。

それを我慢しながらやりました。

どれだけ肉体を酷使したことか。

そうまでしてでも、
やりたかったんですよね。

それだけ面白くて、楽しくて、
仕方がなかったのです。

私が特に好きだったのは、
ドラクエなどのRPG。

ロール・プレイング・ゲームと
呼ばれるものです。

主人公は敵と戦いながら、
鍛えられて成長していく。

仲間を作ったり、
お金を儲けて装備を充実させたりして、
最後はボスキャラを倒す。

そうやって主人公とともに、
冒険をするゲームなのです。

ダンジョンと呼ばれる迷路に入ると、
その中を探検しながら進みます。

ちゃんと道を覚えていないと、
制限時間内に脱出するという
イベントもありますからね。

何度やってもクリアできなくて、
「どうすりゃいいんだよー!?」
なんて怒鳴りながら、
それでも何度もトライするのです。

最近よく、
人生をゲームに例える話を耳にします。

先日紹介した
「「ザ・マネーゲム」から脱出する法」
という本もそうでしたね。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/374954367.html

たしかにそういう見方をすると、
とてもわかりやすと思います。

私もこれまで、
人生はドラマだとかゲームだとか
言ってきました。

でも最近、これはたとえではなく、
本当に魂によるRPGではないかと
思えてきましたよ。

RPGの他に、
シュミレーションゲームという種類の
ゲームがあります。

私がよく遊んだのは、
「信長の野望」というゲームです。

これは織田信長になったつもりで、
美濃一国から全国を制覇するというもの。

最初はまだ全国版ではなく、
しかもプログラムが
ベーシックコードで書かれていました。

そのプログラムには、
各国の経済や兵力などの初期値が
データとして書かれていたのですが、
私はそれを書き換えて遊んでました。

ゲームに慣れて強くなると、
普通にやっても面白くないのです。

ですから、
自分の初期値を小さくしたり、
隣国の値を高くしたりして、
より難しい状況でゲームをしたのです。

なぜそんなことをするのか?

状況が困難であればあるほど、
挑戦しがいがあったからです。

と言っても、
最初から不可能と思えるようなことは
やりませんよ。

最初はちょっとだけ
ハードルを高めに設定します。

自信がついてくるにつれ、
ハードルをどんと高くするのです。

これは絶対に無理だろう
と思えるような困難に、
あえて挑戦することもあります。

だってそれをクリアできたときは、
奇跡が起こったと感じるほど嬉しいし、
それができた自分が誇らしいからです。

さて、
もし人生が壮大なRPGだとしたら、
同じことが言えないでしょうか?

人生には、様々な出来事があります。

その中には、
好ましくないと感じるものもあるでしょう。

また最初から、
困難な状況を背負うことさえあるでしょう。

でも、それがゲームだとするなら、
嫌なことではなく、
むしろ楽しいことではないでしょうか?

私たち人間は、所詮、
いつかはこの世から去る時が来ます。

それは10年後かもしれないし、
明日かもしれません。

そのときが来れば、
それまでどんな状況だったとしても、
すべてがクリアされるのです。

それまでの間、
どんな在り方で過ごすかを、
自分で自由に選択できます。

人生を壮大なRPGだと思えば、
どんな苦難であっても楽しめます。

逆に現実だと思って翻弄されれば、
耐えられないほどの苦しみでしょう。

そのどちらでも、
自分で選ぶことができるのです。

「人生がゲームだって?ふざけるな!」

そう言いたい人もいるでしょうね。

もちろん、そういう人がいていいし、
そういう人は
ゲームだと考えなくても良いのです。

人の価値観や考え方は、
人それぞれですからね。

でも私は、
ゲームだと考えた方が楽しいと思います。

仮に、
本当はゲームじゃなかったとしても、
何が変わるでしょうか?

ゲームだと考えることで、
明るく楽しく生きられるなら、
その方が良いと思いませんか?

そもそも人は、
ゲームを楽しむように創られています。

ですからこの世には、
様々なゲームがあるのです。

スポーツだってゲームと言うでしょう?

囲碁、将棋、チェスなどの
頭脳ゲームもあります。

ジャンケンだってメンコだって、
みんなゲームです。

NHK大河ドラマ「平清盛」の挿入歌に、
面白いものがありましたね。

「遊びをせんとや生れけむ
 戯れせんとや生れけん・・・」

当時の人も、こんなことを
直感的に感じたのだと思います。

人が生きるとは、遊びなのです。

面白いゲームをやっているのです。

だから、楽しんで生きたらいい。

それがどんな状況であっても、
人生は私たちに常に
こう問うているのです。

「さて、
この状況であなたはどうする?
これをどう考えるの?」

そのとき、私たちは
何を基準に答を出すのでしょうか?

他人が決めた倫理観ですか?

常識という名の価値観ですか?

それとも、自分らしさでしょうか?

自分を押し殺して、
他人の考え方にしたがった答を出すとき、
私たちは縮んで
小さくなってしまうようです。

ですから、
それを続けていると苦しくなります。

一方、
自分らしさという基準で答を出すと、
私たちはより大きくなったように
感じます。

もしそうなら、自分らしさこそ
基準にすべきではないでしょうか?

さて、
この状況で最高に自分らしいとは、
どうすることだろう?

そう自分自身に問いながら、
生きたいと思うのです。

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