必要性と好みの違い

必要性と好みの違い

こんにちは!
昨日、初めてワイシャツにアイロンをかけた
赤木です。

妻がまだ実家にいて戻ってこないので、
洗濯とアイロンがけをやりました。

ワイシャツのアイロンがけって、
けっこう難しいですね。

変な折り目をつけられて
頭にきたこともありましたが、
これからは何があっても
妻に感謝しようと思いましたよ。

さて今日は、
「必要性」と「好み」について
お話したいと思います。

私のブログやメルマガを読まれてる方は、
何度か目にしたことがある言葉でしょう。

私もあちこちで書いているので、
簡単に理解されることだと思っていました。

しかし、この言葉も説明されないと
理解できないのだということに、
改めて気付かされました。

それで今回、
丁寧に説明しようと思ったのです。

メールで質問してくださったHさん、
いつもありがとうございます。

まず、幸せになれない人の考え方は、
何かに執着したり、依存したりします。

たとえば、お金に執着していると、
お金を得るために非道なことも
やってしまうかもしれません。

そうやってお金を得たとしても、
幸せにはなれないのですが、
そのことに気づかないのです。

このように、
何が何でもお金がほしいという状態を、
お金の「必要性」を感じている状態、
というように言います。

逆に言えば、
何かの「必要性」を感じているとき、
そのものに対して執着したり、
依存したりしているのです。

では、これが「必要性」ではなく、
「好み」だったらどうでしょうか?

「好み」とは、
それがあれば嬉しいけど、
仮になくてもかまわない、
と感じる状態です。

ですから「好み」であれば、
その物に執着することもないし、
依存もしません。

その物に対して、
自分が自由でいられます。

ですから、幸せでいられるのです。

では、「必要性」と「好み」は、
どうやって区別するのでしょう?

たいていの人は、
お金がほしいと思うでしょう。

これだけでは、
「必要性」なのか「好み」なのか、
区別できません。

ここでもし仮に、
人を殺したらお金をあげると言われたとき、
殺してでもお金がほしいと考えるのが
「必要性」です。

お金はほしいけど、
そこまでして手に入れなくてもよい
と考えるのが「好み」です。

もちろんこれは、極端な例です。

人殺しではなく、盗みならどうでしょう?

盗みではなく、
誰かを非難する代償だったらどうでしょう?

つまり、
自分らしさを犠牲にしてまで
手に入れたいと思うかどうか。

それが「必要性」と「好み」の
違いなのです。

何かに執着する気持ちとか、
依存する気持ちの
度合いを下げるために、私は、

「必要性」から「好み」へ

シフトすることを勧めています。

欲しいものは欲しいし、
好きなものは好きなのです。

そのことを否定する必要はありません。

そうではなく、
自分らしさを犠牲にするなら要らない
と思えるほど、
その度合を減らすことを勧めています。

では、
自分らしさとは何かということですが、
それは、
そうすることが気持ち良いかどうかです。

そうすることで
自分が気持ちよくなるなら、
それは自分らしいことです。

そのとき注意しなければならないのは、
言い訳をしないことです。

気持よくなれないけど、
そうしなければならないのだ
という理由を作ること、
それが言い訳です。

そういう言い訳をしていると、
自分の感覚に鈍くなってしまい、
自分が気持ち良いかどうかが
わからなくなってしまうのです。

その言い訳に使われる最たるものが、
義務と呼ばれるものです。

この義務は、暗黙の義務も含まれます。

たとえば、
「常識に従うべきだ」という考え方も、
暗黙の義務を作り出します。

「空気を読め」というのもそうですね。

誰か他の人の価値観に
したがわなければならない。

それが義務です。

そういう義務を持ち出すことで、
自分が気持ちよく感じるかどうかを
無視するようになります。

気持よく感じることより、
優先すべきことがあると考えるのです。

そうやって、
自分でない何かに執着し、あるいは依存し、
自分を見失ってしまうために、
幸せを感じられなくなるのです。

執着するというのは、
なにも物に対してだけではありませんよ。

たとえば、
他の人を変えることに執着する人もいます。

「こうすべきだ」と言って、
他人を変えようとする人は、
けっこういますよね。

ここでも先ほどの義務が利用されます。

「常識に従うべきだ」
「マナーを守るべきだ」

そう言って他人を批判しているとき、
気持ちいいですか?

気持ち良くないはずです。

自分らしさを犠牲にしてまで、
他人が変わることの「必要性」を
感じているからです。

他人が変わることに依存しているのです。

もしこれが「好み」ならどうでしょう?

他人がそうするのは、
他人が自由意思で決めることですから、
自分がコントロールできることではない
と理解するでしょう。

他人が自分の思い通りに
変わってくれれば好ましいけど、
別にそうでなくてもかまわない。

こう考えるのが「好み」なのです。

こういうように、
他人を変えることに執着しなければ、
気持ちが楽になりますよね。

でもそうすると、
あまりに無関心なように
感じるかもしれません。

たとえば愛する人が悩んでいるとき、
「気晴らしにドライブへ行こう」
と誘ったとします。

しかし相手は同意しません。

せっかく相手のために誘ったのにと、
腹が立つことがあるでしょう。

これは「必要性」になっています。

「好み」なら、腹は立ちません。

だって、どうするか決めるのは、
相手の自由ですから。

相手の自由を認め、
相手が自由であることを喜ぶこと。

それは愛なのです。

それが愛だと気づかず、
心配することや相手を変えることが
愛だと勘違いしているから、
知らず知らずに依存してしまうのです。

愛は自由です。

相手の自由を喜ぶこと、
相手を手放すことが愛なのです。

ドライブに誘ったのを断られたら、
残念かもしれません。

けれどもそれは、
相手に押し付けることではないのです。

相手の自由にさせることが
相手を愛することなのですから。

それに相手は、
悩む体験によって、
何かを学ぶかもしれません。

そうしたら悩む体験は、
けして悪いものとは言えないでしょう。

悪いと考えるのは、
1つの見方に過ぎません。

そういう自分の見方を、
相手に押し付けなくても良いのです。

愛するなら、
悩んでいる相手を助けるべきだ、
と考えるのは傲慢です。

悩んでいる相手を
助けようとすることが自分らしいなら、
そうすれば良いだけです。

それに相手が従うかどうかは、
相手が決めることです。

その相手の自由まで奪い、
自分の思い通りにしなければ
気がすまないとするなら、
それは執着しているのです。

相手が自分の思い通りになることの
「必要性」を感じているのです。

いかがでしょうか。

「必要性」と「好み」の違いが、
理解できたでしょうか。

この違いがわかると、
自分の考えを
チェックできるようになります。

「必要性」に傾いているなと感じたら、
それを「好み」のレベルにまで
下げていきましょう。

そうすることで、
自分自身が自由になります。

自由を感じるようになると、
簡単に幸せになれるのです。

العربية简体中文EnglishFrançaisDeutsch日本語PortuguêsEspañolไทย