視点が変わると感情が変わる

視点が変わると感情が変わる

こんにちは!
昨日、妻の実家からバンコクに戻った
赤木です。

詳細はブログの方に書いてますので、
そちらもご覧くださいね。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/372434092.html

さて、ブログにも書きましたが、
妻の実家ではお義父さんの葬式に
参列してきました。

バンコクの葬式とはまた違っていて、
いろいろと考えさせられました。

今日は、そのことをお話します。

私の葬式初体験は、祖父のものでした。

「おじいちゃんのための読経」と題して、
ブログに書いています。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/287874449.html

あのときは、本当に悲しかった。

初めて身近な人の死を体験したのです。

祖父の葬式のとき、
大勢の人がやってきました。

そのとき、
ある若い男性の行動に目が止まりました。

数珠を何度が放り上げて遊んでいるのです。

待ち時間が退屈だったのかもしれません。

しかし、遺族は悲しんでいるのです。

私は思いました。

「ふざけるなよ、このやろう!
おじいちゃんの死を悲しむ気がないなら
来るな!」

ぶん殴ってやりたいくらいに
腹が立ったのです。

それは、
自分の悲しみが受け入れてもらえない
辛さでした。

自分自身が否定されたような
気持ちになったのです。

もちろん当時は、
正義は我にありと思っていました。

理不尽なのは相手であって、
自分が正しいのだと。

ですから、
仮に相手を殴って追い返したとしても、
自分は間違っていないと思ったのです。

しかし、
当時はまだ11歳くらいの子どもですから、
おそらく30歳くらいの大人に
かなうはずもありません。

悔しさを押し殺すしかなかったのです。

今回、タイの田舎、
イサン地方の葬式に参加して驚きました。

ともかく賑やかなのです。

朝から晩まで
大勢の人が出入りするのですから、
賑やかにならない方がおかしいでしょう。

朝から酒が振る舞われますし、
酔えば声も大きくなります。

まあ、ただでさえイサンの言葉は
ちょっと乱暴に聞こえるので、
うるさいことこの上ない。

しかも、
火葬場へ向かうときは爆竹を鳴らし、
飴やコインをバラマキ、
あちこちで歓声が上がります。

一応、しめやかな音楽は鳴っていますが、
大音量で流されると、
まるでチンドン屋の行列です。

一緒にいた他の地域出身の妻の友だちは、
歓声を上げて飴などを拾う人たちを見て、
「バカじゃないの!?」と少々お冠です。

その彼女の気持は、
まさに私が子どもの頃に感じたものでした。

人が亡くなったのです。

その悲しみの中にありながら、
飴やコインを求めて歓声を上げる。

そういうふざけた気持ちが、
許せなく感じたのだと思います。

しかし私は、
彼女と同じようには思いませんでした。

朝から晩まで、
遺族の周りで賑やかにしていてくれる。

また遺族は、
そういう人たちをもてなすために、
大忙しで動き回る。

このことによって、
故人を亡くした悲しみに
浸る暇がなくなります。

それがかえって良い、
と感じていたのです。

心には、
一度にひとつのことしか入れられません。

ですから、
忙しくしたり、賑やかにしていると、
悲しんでなどいられないのです。

そういう状態が1周間から10日も続きます。

そうやって悲しみに浸る余裕もなく
時間が過ぎて行くと、
心の痛みが薄れるのです。

もちろん、
時折は思い出して悲しくなるでしょう。

事実、その賑やかな中でも、
声を上げて泣き出す遺族の方も
おられました。

でも、
その場にずっと留まっては
おられないのです。

そうすることを許してくれない
状況があるのです。

私も、
初めて正式に付き合った女性から
フラれたとき、
息もできないほど悲しみました。

そんな私を救ってくれたのは、
新聞配達という仕事でした。

自分がどんな状況でも、
それをやらなければいけない。

そういうものがあったから、
私は悲しみに浸ることが
許されなかったのです。

そしてそれによって、
私がとんでもないことを選択する前に、
あるいは心身ともに壊れる前に、
時間が記憶を風化させてくれたのです。

このことも、ブログの記事
「辛い失恋もありました」に書いています。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/287874440.html

ですからイサン地方の葬式も、
同じような効果があるのだなと
感じていたのです。

実際、妻は、
気丈に振る舞っていました。

お義父さんの危篤の報を受けた時は、
「どうしたらいいの!」と
泣きながらうろたえた妻です。

その死は、悲しくて仕方なかったはず。

けれども、
悲しみに浸っている暇がないのです。

しきたりに従って、
あれやこれや手配しなければならないし、
お義母さんの面倒も見なければならない。

私は、
そういう妻の姿を見て頼もしく感じたし、
そういう風に妻をさせている一つの要因が、
この賑やかな葬式なのだと思ったのです。

そんなことを考えたとき、
私は少年のときに抱いた、
数珠を投げて遊んでいた大人への憎しみが
完全に消えました。

もちろん、
その人がそういうことを考えて、
わざとふざけたわけではないでしょう。

でも、そんなことはどうでも良いのです。

賑やかにしてくれる人がいるから助かる。

自分がそう考えれば良いだけなのです。

自分がそういう考え方をしたら、
その人の行為がどうでもよくなった。

それだけのことなのです。

お義父さんの葬式で騒いでいた人だって、
同じではありませんか。

別に遺族を悲しませないようになどと
考えたわけではありません。

タダで酒が飲めて飯が食える。
酔った勢い。それだけですよ。

問題なのは、
相手の意図や動機ではありません。

自分がどう考えるか、
自分がどういう視点で見るか、
それだけなのです。

相手は自分の思いで、
好き勝手な行動をしているだけ。

それを腹立たしく感じることもできるし、
視点を変えれば、
感謝することさえできます。

また、
どちらの見方が正しいと、
決められるわけでもありません。

その人の価値観にしたがえば、
その人の見方が正しいのです。

ですから、
どちらの見方を自分が選択するか、
それだけのことです。

自分の自由意思で、
どちらの視点を選択するのか。

それを自分で決めるだけのことなのです。

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