すべては完璧だと腑に落ちました

すべては完璧だと腑に落ちました

こんにちは!
妻の実家があるイサン地方から戻ってきた
赤木です。

イサン地方での出来事は、
ブログをご覧くださいね。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/356016175.html

さて今回は、ブログで予告したように、
イサン地方から戻る途中で発生した
ある出来事に関して書きます。

以下のブログ記事の最後に、
その予告が書いてありますので、
そちらも併せてお読みください。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/356127289.html

妻から、
「自分は無関心だったか?」
と尋ねられたとき、私は正直に
「無関心だった」と答えたのです。

しかし、そのことによって妻は、
機嫌を損ねてしまいました。

それで私は、
どうしてそうなってしまったのだろう
と考えたのです。

一般的には、「正直もほどほどにせよ」
という解が得られるのでしょう。

でも私は、
それでは納得できなかったのです。

相手の機嫌を取るために嘘をつく。

それは相手におもねることであり、
相手に特定の態度を期待し、
それに執着することだと感じたからです。

そこで私は、
一から考えてみることにしました。

まず妻が無関心だったということは、
事実なのか、それとも評価なのか
と考えたのです。

たしかに一般的には、
無関心な態度というのは、
悪いことものように思われます。

そして私も、無関心な妻の態度に、
腹を立てるほどではないにせよ、
落胆した部分もありました。

けれど、
「ではあれは無関心ではなかったのか?」
と問われると、
「無関心だった」
と答えざるを得ないのです。

つまり、事実として妻の態度は
無関心だったということには、
間違いがないと思ったのです。

では評価として、
「無関心な妻の態度は悪いことか?」
ということを考えると、
別の答がありそうな気がしてきました。

なぜなら、
すべての出来事はニュートラルで、
そこにはどんな意味でも
与えられるからです。

私は、妻の無関心な態度に
どんなメリットがあるかを考えました。

すると、意外にも(?)
メリットがあったのです。

それはまず、
気が弱い私を鍛えてくれる
ということです。

妻がそばにいるから、
つい頼ってしまうのです。

もし一人であの場にいたら、
たとえ方言のイサン語がわからなくても、
なんとかしてコミュニケーションをとろうと
したでしょう。

妻がいれば、
どうしても妻を通訳にしてしまいます。

また、
せっかく携帯電話を持って行ったのに
妻から喜ばれなかったことも、
落胆する以外の答がありました。

私は少なからず、
妻の好意的な反応を期待したのです。

喜んでくれないにしても、
感謝されないにしても、
少しくらいは助かったと思ってもらえると。

そこに執着心があったから、
私は落胆したのです。

その執着心があったことに気づけたのは、
妻があそこで喜ばないでくれたお陰です。

執着心(=必要性)というのは、
知らず知らずに心の中に忍び込んできます。

放っておくと、
心の中で大きくなってしまうのです。

ですから、
それに気づかせてくれる妻の態度には、
まるで仏を見るような思いがします。

私と感性が違うから、価値観が違うから、
私は気づかせてもらえるのです。

もしまったく私と同じだったら、
私は自分を別の視点から
眺めてみることができないでしょう。

すると私は、
自分の考え方を検証することもせず、
現状のままで過ごすはずです。

それは、進化ではなく停滞です。

そう考えたとき、
私は震えるほど嬉しくなりました。

私はなんと素晴らしいパートナーに
恵まれていることでしょうか。

この妻がパートナーであることを、
本当にありがたく思ったのです。

「無関心でいてくれて、ありがとう。」

「無関心でいてくれて、嬉しい。」

そう、妻に言いたくなりました。

そのとき、ある1つの概念が、
スーッと私の心の中に入ってきて、
どっしりと腰を据えた感じがしました。

それは、
「すべては完璧だ」ということです。

どんな出来事があったとしても、
たとえそれが
好ましくない出来事に思えたとしても、
それは完璧なのです。

いやむしろ、
好ましくないと思われる
出来事であればあるほど、
そこには完璧さが備わっています。

私の顕在意識は最初、
その出来事を喜ばないかもしれない。

起こってほしくない出来事と
感じるかもしれない。

しかし私の魂は、
それが私の進化のために、
目標達成のために必要だと思うなら、
その出来事を引き寄せるのです。

バンコクから出発するときは、
飛行機の出発ゲート変更があり、
妻のお陰ですぐに気が付きました。

そして、
妻と一緒で良かったなと思ったのです。

ところが妻の実家へ行ってみると、
思い通りにならないことが
次々と起こります。

そして正直に言えば、
「二度と来るものか」と思ったのです。

そうした出来事の数々を
後から振り返ってみると、
妻との関係において、
たくさんの気づきが得られたのです。

そして、
「すべては完璧だ」という概念が、
これまで頭で理解しただけだった概念が、
スーッと腑に落ちたのです。

これはとても嬉しい体験でした。

すべてが完璧なら、
何も怖れる必要がありません。

何が起ころうとも、
それは自分(の魂)が
自分のためになるからと考えて、
引き寄せたことなのですから。

私に嫌な思いをさせる人が現れても、
私は心の中で「Good Job!」と言って、
その働きを讃えようとさえ思いました。

数年前にも同様のことを感じて、
涙を流した体験がありました。

その再来です。

「そうだよな。そうなんだよ。
あー、嬉しいなあ。」

その体験があった日の朝、
私はそう呟きながら
会社へと向かったのです。

この私の話を聞いて、
批判する人もいるでしょう。

「そんなの、
勝手に思い込んでいるだけじゃないか。」

「現実的に良くなるという保証がないなら、
それが何になると言うの?」

でも私は、
どんなに批判されても平気です。

なぜなら、誰も私の
心の平安を奪うことはできないからです。

私が平安を奪われることを許可しない限り、
そうはならないのです。

批判する人の言うことが
間違っているとも言いません。

そう考えたい人は、
そう考えたら良いのです。

だって人は自由なのですから。

そう考えることが
自分にとってメリットがあると思うなら、
どうぞ好きなだけそう考えてください。

私は、そういう人たちを
批判することはありません。

私はただ、
これは私の真実だと言っているだけです。

それぞれの人には、
それぞれの人の真実があります。

その自分の声に従えば良いと思うのです。

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