私はセ●●スが好きだ(18禁)
- 2013.03.05
- 2013年
こんにちは!
金気功という変わったものを体験した
赤木です。
ゴルフでヒジを痛めたので、その治療です。
詳しくはブログをご覧ください。
http://4awasejsn.seesaa.net/article/340453542.html
さて、久しぶりに
(18禁)の話題を取り上げましょうか。
と言うのも、ブログにも書いたように、
「神との対話②」を読んでいるからです。
この本には、セックスについて
重点的に書かれた部分があります。
それを読んでいて、
またこの話をしたくなったのです。
私たちは子どものころから、
性的なことに関心を示すと、
「子どもにはまだ早い」とか言われて、
その話題から遠ざけられてきました。
それでも性的なものへの関心はあります。
ですから親に隠れてコソコソと、
11PM(※)など大人の番組を見たものです。
※1990年まで24年間続いた民放の深夜番組
そうやって、性的なものは隠すもの、
おおっぴらにするのは恥ずかしいこと
という価値観が、
無意識に刷り込まれました。
「神との対話②」では、
セックスを愛することは
まったくかまわないし、
むしろ努めですらあると言います。
セックスに溺れることは良くないが、
好きになるのはOKだと。
そして、こう言います。
「1日に10回、こう繰り返すといい。」
「--わたしはセックスが好きだ。」
(p.111)
なんだか変態みたいに思えませんか?
それだけ、この本に書かれた価値観と、
私たちが持っている価値観が
違っているという証拠です。
同書では、まず自分に喜びを与えること、
自分自身を愛することを勧めます。
なぜなら、自分が持っていないものは
他者に与えられないからです。
いくら他人を愛そうとしても、
自分が愛に満たされていなければ、
他者を愛することはできません。
自分が喜びに満たされていなければ、
他者を喜ばせることはできません。
自分がお金に満たされていなければ、
他者にお金を与えることはできないのです。
ですから、それがどんなことであれ、
自分が喜ぶものは十分にまず自分に
与えることだと言うのです。
そこで性的な部分に関して、
タントラの行者(ヨギ)を例にあげ、
彼らは自慰を推奨していると言います。
自慰とは、
自分自身に性的な喜びを与えることです。
他者から何かをしてもらわなくても、
まず自分で自分に十分な喜びを与える。
そうすることで、まず自分の乾きを癒し、
他者を癒す準備をするというわけです。
少し長いですが引用しましょう。
「だから、タントラの恋人たちは
相手を楽しませる前に、
自分に歓びを与えることがある。
お互いの前ですることも多いし、
励ましあったり、
導きあったりすることがふつうだ。
それから、
当初の飢えがおさまったところで、
もっと深い、相手への渇き
--長時間の合一を通じた
エクスタシーへの渇き--
の輝かしい充足が実現される。」
(p.115)
つまり、自分自身を満足させることは、
他者を満足させるための
一里塚でもあるわけです。
それなのに自分を満足させることを否定し、
他者を満足させようとしても、
それは一里も進まないのに
千里を進もうとするようなもの。
論理的に破綻していますよね。
私たちは、自分の体験をしっかりと味わい、
そのときの感情に耳をすませ、
自分が喜ぶことを「よし」とすれば
良いのだと同書では言います。
それなのに大抵は体験を無視し、
誰か他の人の考えを指針にしてしまう。
それこそが最大の罪だと言うのです。
「こうすべきだ」という言葉を使うとき、
それは自分の体験を根拠にしていません。
誰かの考えに従おうとしているのです。
そうやって自分の体験を無視して、
誰かの意見に従うなら、
人生は思い通りにならず、
楽しめないことになっても当然です。
なぜなら、
自分が喜ぶことをしていないのですから。
「でも自分が喜ぶことをやっていたら、
怠惰になったり、他人に迷惑をかけるような
人間になるじゃないか。」
そういう反論というか心配は、
たしかにあると思います。
けれども、本当にそうでしょうか?
たとえば子どもが、
叩いてでも他の子が持っているおもちゃを
奪おうとします。
そうして奪ったとき、
本当に楽しめているでしょうか?
楽しめている段階もあるでしょう。
けれども、
それはまだ精神的に幼いからです。
おもちゃを奪われて泣いている子を目にし、
それでも平然としていられるでしょうか?
居心地が悪くなって、
おもちゃを返したりするでしょう。
その子は、自分の体験にしたがったのです。
けれども、
叩こうとしたときに大人が止めて、
その子を叱ったとしましょう。
その子は怒られたから、
時には大人から叩かれたから、
仕方なしに自分の欲求をあきらめます。
けれども本心では納得していません。
恨みは抑圧され、
心に溜まっていくでしょう。
こうして、
表面的には従順な良い子になっても、
内面的にはドロドロとしたものを抱える
人間になるのです。
生まれたばかりの赤ちゃんは、
座ることも立つことも、
首を持ち上げることさえできません。
肉体的に幼いからです。
そんな赤ちゃんに、
「なぜ歩かないのか?」と言って
叱る人がいるでしょうか?
もしそうしないのなら、
どうして精神的な幼さを
寛容な態度で受け入れないのでしょう?
赤ちゃんは、一気に大人にはなりません。
体験し、失敗を繰り返しながら
大人になるのです。
大人になれと言われるから
大人になるのではなく、
体験にしたがうことで大人になるのです。
肉体がそうなら、どうして精神は
そうでないと言うのでしょう?
精神だって同じです。
幼い段階を経て、少しずつ成長するのです。
だから、
幼稚な欲求を否定してはいけません。
まず幼稚な欲求を満足させることで、
次のレベルに進めるのです。
若いころは、
セックスが大好きなはずです。
思い切り、好きなだけやったらいい。
ただ、自分の感情に素直になることです。
そうすれば、レイプなんてあり得ません。
どうして嫌がっている相手を
無理に犯すことが楽しいのでしょう?
他人を傷つけて喜べるのは、
精神が幼いのです。
相手を叩いておもちゃを奪い、
それでも満足している段階の幼児と
同じレベルです。
本当なら、
性行為が可能になる年齢までに、
その段階は卒業してほしい。
そのためにも、
誰かの価値観を押し付けるのではなく、
自らの体験にしたがうことを
習慣にしてほしいのです。
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