私たちは「ひとつのもの」ということ
- 2012.11.12
- 2012年
こんにちは、赤木です。
私の考え方を
ブログやメルマガで発信していますが、
その根本にある考え方について
お話しましょう。
それは、
私たちは「ひとつのもの」だ、
という考え方です。
このことは、
ブログの記事「般若心経の意味がわかった」
でも書きました。
この考え方も、
私のバイブルだと思っている
「神との対話」にあったものです。
その本を読む中で、
「本当にこの意味がわかった」
と感じたことがありました。
それは、「神との対話③」の
p.171以降を読んでいたときです。
そのことについて、
本から引用しながらお話しましょう。
第7章(p.160から)では、
輪廻転生があるかどうかについて、
著者・ニールと神との会話が続いています。
動物にも魂が宿るかという質問に、
神は動物の目を見ればわかると、
間接的に答えます。
ただし、誰かの生まれ変わりが
自分の飼っているペットということはない、
とも言います。
なぜなら魂の望みは、
自分自身のさらに高い側面を経験することで、
そのためには低位の存在(動物など)に
戻ることは意味がないからと。
また魂は、
さらに進化するために自ら人間に戻り、
何度も何百回も人生をやり直すと言います。
そこで著者のニールが
こういう質問をします。
「それじゃ、毎日、
システムに「新しい魂」が参加して、
低位の生命のかたちをとるんですね。」
これに対して神はこう答えます。
「いや。すべての魂は、
いっぺんに創られている。
すべてがいま、ここにある。」
時空にとらわれて生活している私たちは、
どうしてもその制限の中で
考えてしまいます。
ですから、
生まれたばかりの魂が動物に宿り、
次の生では人間にと、
時系列で考えてしまうのです。
でもそれでは、
本質的な世界では時空は存在せず、
「いま」「ここ」しかないことと
矛盾します。
それでニールは混乱し、こう言います。
「すると、わからなくなるんですよ。
宇宙の時空のつながりのなかで、
「わたし」のひとつが「死に」、
そしてべつの人間として戻ったとしたら・・・
すると・・・どれがわたしなんですか?
いっぺんに二人の人間として
存在することになりますよね。
それを永遠にくり返したとすれば
(だって、そうおっしゃるんでしょう)、
わたしはいっぺんに
何百人もの人間になってしまう!」
それに対して神は、
「そうだね。」とあっさり答えます。
そのあとしばらく会話が続きますが、
ニールはどうしても自分の立場でしか
考えることができません。
そこで神はこう言います。
「混乱するのは、まだ、
わたしたちがひとりではなく
複数だと思っているからだよ。」
さらにこう続けます。
「ここには、
わたしたちはひとりしかいない。
これまでも、ひとりしかいたことがない。
そこに、気づいたんじゃなかったのかな?」
ここまで読んだとき、
私は背筋がゾクっとしました。
たしかに、
私たちは「ひとつのもの」だと、
これまでにも書かれていました。
それを分割することで、
この世にたくさんの魂が生まれたのだと。
それは理解していましたが、
本質的に理解していなかったのです。
私の理解は、
せいぜい「私たちは兄弟姉妹」ではなく、
「私たちはひとつのものの一部だ」
ということだったのです。
私が右手なら、他の人は左手。
そういう認識だったのです。
けれどもここで、
神は驚くことを言っています。
それは、
「存在するのはひとりだ」ということです。
つまり、あなたは私であり、
私はあなただということです。
私は、「分割した」という言葉から、
物理的に2つに分けたというイメージを
持っていました。
つまり
「ひとつのもの」だった神を2つに分割して、
「ふたつのもの」にしたイメージです。
だから、
私たちは「ひとつのもの」の一部だ
という考えになったのです。
でもそれでは、
他の人は「ひとつのもの」の別の一部だ
ということになり、
私とは別のものになってしまいます。
時空が存在する中での分割では、
どうしても別の部分が存在していて、
それを単に切り離したイメージになります。
「神との対話③」のこの部分を読んだとき、
私の中にスーッと「ひとつのもの」の
イメージが入ってきました。
時空のない世界での分割というのは、
まさに文字通りに
時空を使った分割だったのです。
時空を創ることによって、
私たちは他人を、
自分とは別のもの(=他人)として
見ることができたのです。
したがって本質の世界で
時空が存在しない状態になれば、
それは「ひとつのもの(=ひとり)」に
なるしかないではありませんか。
それまでにも、
「他人を自分のことのように考えよう」
という考え方は知っていました。
しかし、どんなに頑張っても、
他人は他人にしか見えなかったのです。
絶対に自分と同じには思えなかったのです。
けれども
私たちが「ひとつのもの」だとすれば、
それが可能になります。
他人とは、
別の人生での経験を選んだ私自身だから。
この世には、
たったひとりしか存在していない。
それは、
あなたであり、私であり、私たちなのです。
そのことがわかったとき、私は初めて、
他人を本当に愛せると思いました。
だって、その人は「他人」ではなく、
「私」自身だからです。
それがどんな人であったとしても、
それは「私」であることを忘れた
「私」自身です。
どうして愛せないことがあるでしょうか?
愛さないなんて不可能です。
だって、私なのですから。
これで、すべてのことが説明できます。
どうして他人のためにすることが、
自分のためになるのか?
どうして自分を愛さないと、
他人を愛せないのか?
簡単でしょう。
「他人」などという存在は
存在しないからです。
存在しているのは、
すべて「私」という存在だからです。
私は、私のことを愛しています。
だから、あなたのことも愛するのです。
たったそれだけのことなのです。
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