子どもを育てる責任は誰にあるのか?(18禁)

子どもを育てる責任は誰にあるのか?(18禁)

こんにちは、赤木です。

あなたに質問です。

子どもを育てる責任は、
誰にあると思いますか?

「両親」

おそらく、
ほとんどの方の答がそうでしょう。

しかし、その考え方が
この世界が上手くいかないことの
元凶になっているかもしれませんよ。

今回は、そのことについて話します。

ブログにも書いたように、私は今、
「神との対話」シリーズを読んでいます。

http://4awasejsn.seesaa.net/article/300459478.html

今は「神との対話③」を読んでいますが、
そこに興味深いことが書かれていました。

この世が上手くいかない理由の1つは、
未熟な人間が子どもを育てるために、
子どもを愛情深く育てられないことにある
と言うのです。

ちょっと引用しましょう。

<--- 引用始め --->

若い親ほど、
子供を育てるのに不適切な人間はいない。

(中略)

たいていの親は、
ほんの短い人生経験しかないまま、
子育てをする。

自分自身がろくに育ち終わっていなくて 、
答えを求め、鍵を探しているのに。

親はまだ自分自身を発見していないのに、
自分よりもさらに傷つきやすい者を導き、
発見の手引きをしようとする。

自分自身が何者かを決めかねているのに、
他者が何者かを決める行為に突進する。

当人自身が親たちにまずい決め方をされて、
それをなんとか
克服しようとしている最中なのだがね。

<--- 引用終り --->
(同書p.48)

このことが、
親から子へと問題が受け継がれていく
原因の1つになっています。

虐待された子が成長して親になると、
自分の子に虐待してしまうというのも、
まさにこのことです。

そしてこの本では、
子を作る行為と育てる行為を
別の人間がやるべきだと言います。

これも引用しましょう。

<--- 引用始め --->

子供をつくるのは、
よく発達した強い身体をもつ若者の活動だ。

子供を育てるのは、
よく発達した強い精神をもつ年長者の活動だ。

<--- 引用終り --->
(同書p.50)

たしかに考えてみれば、
人間は12歳から15歳くらいで、
機能的に大人になります。

つまり、
子どもを作ることが可能になります。

動物の世界なら、
機能が備わるということは、
それを使うということになります。

性交が可能になった段階で、
躊躇なく交尾が行われるのです。

しかし人間は、
身体的には大人になっていても、
精神的にはまだ、
大人になりきれていないものです。

そこで人間は、精神的に大人になるまで、
子どもを作る機能を利用すること、
すなわちセックスを禁止したのです。

これについても、
以下のように書かれています。

<--- 引用始め --->

若者にセックスを楽しませるかわりに、
また、生まれた子供を
年長者に育てさせるかわりに、
「子育ての責任がとれるまでは
セックスをするな」と若者たちに言う。

性体験をすることは「間違っている」と、
人生で最も楽しく喜ばしいことのまわりに
タブーを築く。

(中略)

人間は時期が来たという内なるしるしを
感じたらすぐ、カップルになりたい、
交合したいという欲求を感じる。

それが人間の自然な性質なのだ。

ところが、
何が自然な性質だと考えるかは、
自分自身が感じることよりも、
親が教えることで決まる。

<--- 引用終り --->
(同書p.50)

こうして自然な欲求を、本来の自分を、
恥ずかしく感じるように
大人たちが仕向けたのだと言うのです。

この真偽はさておき、
私はこの考え方に一理あると思います。

と言うのは、
私の妹が子どもをつれて実家に帰ったとき、
私の父が上手に孫達をあやして
遊んでいる姿を見たからです。

厳格で、
私たち子どもには厳しかった父です。

それがもう、
何でも受け入れてあげるというような
優しさで孫を包み込んでいました。

それを見た私は、羨ましく感じました。

「私も、あんな風に
育ててもらいたかったなあ。」

もしあんな育てられ方をしたら、今、
父との間で心にわだかまりがあるような
状態にはならなかったと思うのです。

おそらく父も、私が子どもの頃は、
心に余裕がなかったのでしょう。

最初の男の子ですから、
大事に育てなければならないし、
跡取りとして立派に育てなければならない。

そんなプレッシャーの中で、
必死だったのだと思います。

また、
家族の生活を支えるプレッシャーもあり、
仕事のストレスも抱えていたのでしょう。

プレッシャーとは必要性です。

何かを必要と感じる程度が強いほど、
私たちは自由から離れ、
愛から遠ざかります。

だからそのことで
父を責める気持ちはありません。

けれども、孫と接している父を見たとき、
羨ましく思ってしまったのです。

そんなこともあって私は、
あるプランを思いつきました。

それは、
老人ホームを保育園にする、
というものです。

老人ホームのお年寄りは、
特にやることもなくて暇そうです。

そのため、早く老けてしまうということが
あるように思いました。

一方、保育園は待機児童が出るほどで、
子どもの受け入れ先がなくて
親たちは困っています。

もしその子どもたちを
老人ホームのお年寄りに
預けることができたら、
それこそ一石二鳥ではありませんか。

お年寄りたちは、
無邪気な子どもたちと接することで、
生きる歓びを得られるでしょう。

毎日の生活に張り合いが生まれます。

一方の子どもの親たちは、
高い保育料を払わずに子どもたちを預けて
働くことができます。

さらに子どもたちも、
お年寄りの知恵を学ぶ機会が与えられので、
そのメリットもありますね。

そうすると一石二鳥どころか
一石三鳥にもなります。

タイでは、
生まれた子どもを田舎の親に預けて、
自分たちはバンコクで働くという親が、
少なからずいます。

それで親子の関係が疎遠になるかというと、
そうでもないようです。

ただもちろん、
そのように離れて生活するうちに、
親が離婚するなどして、
実家に帰ってこなくなるというケースも
多々あります。

そうなると子どもは、
親から捨てられたという気持ちになり、
心に傷を残すことにもなります。

そういうことがあることはわかりますが、
それでもなお、精神的に大人になった人が
子育てを担当するという考え方は、
理にかなっていると思います。

それは、
育てられる子どもへの影響も重要ですが、
それに加えて若い親が
無用なプレッシャーから解放される
というメリットがあるからです。

以前、
若い母親が子どもをアパートに残して
数週間も帰らなかったため、
子どもが餓死した事件がありました。

それに対して、親の責任を追求する声が
多かったように思います。

けれどもおそらく、
その母親もつらかったのです。

誰も好き好んで
自分を慕ってくる子どもを
虐待しようなどとは思いません。

そうせざるを得ない事情が、
必ずあったのです。

そう言うと、
「私は絶対にやらない」という人がいます。

たしかに、そう思うことは可能だし、
事実そうかもしれません。

けれども私は思うのです。

2千年前、
イエスが律法学者たちに言った言葉は、
今の私たちに語られている言葉なのだと。

「あなた方の中で罪のない者が、
まずこの女に石を投げつけるがよい」

(ヨハネによる福音書第8章7節)

律法学者たちは、ひとり、
またひとりとその場を立ち去り、
最後にはイエスと
罪を犯した女だけが残されました。

イエスは「私もあなたを罰しない」と言い、
女は許されたのです。

人はみな、何かしらの罪を犯しているもの。

程度の差はあれ、
それは同じことだと言うのです。

それなのに、
「あの人は悪い。私は正しい。」
と言って分裂させるから、
いつまでたっても
心に平安が訪れないのです。

目の見えない人がいたなら、
目の見える人が杖となってあげれば
よいではありませんか。

理解の遅い人がいたなら、
理解が速い人が道を示してあげれば
よいではありませんか。

私たちに違いがあるのは、
自分の正しさを主張し合うためではなく、
互いに助け合うためです。

上が下をバカにするためではなく、
左が右を非難するためでもありません。

違いがあるのは、私が私であることを
体験して喜ぶためなのです。

精神的に未熟な親に
子育ての全責任を押し付けるのではなく、
経験豊かな年寄りが
助けてあげれば良いと思うのです。

もし、
そういう仕組みに多くの人が賛同するなら、
少子化傾向が改善されるかもしれないし、
人と人との絆が強まると思います。

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