すべての人が幸福であることを願う
- 2012.10.11
- 2012年
こんにちは、赤木です。
宮沢賢治の有名な言葉があります。
「世界全体が幸福にならないうちは、
個人の幸福はあり得ない」
私はたしか、高校生くらいの頃に
この言葉を知ったと思います。
そのときの印象は、
「すごい人だなー」と感心する気持ちと、
「でも、無理だよ」というあきらめです。
どう考えても、
世界中の人すべてが幸福になるなんて無理。
そう感じました。
逆に言えば、
あまりに理想的すぎるから、
当面の責任が回避されるとも考えられます。
宮沢賢治がそういうつもりで、
単にかなわぬ夢として
言ったかどうかはわかりません。
けれども、現実に
それが達成できる道筋を示さなかったら、
それは単に夢であり、
願望に過ぎないと思ったのです。
その後、
私の人生にも様々なことがありました。
詳細はブログに書いていますので、
興味のある方はこちらをご覧ください。
http://4awasejsn.seesaa.net/category/14379255-1.html
そういった経験の中で、
私もすべての人が幸福にならなければ、
本当の意味での個人の幸福もないのでは
と思うようになりました。
もし神が存在して、
人間が神の子供のようなものだとするなら、
そうだろうと思うのです。
たとえば何人かの子供がいる親は、
たとえ1人の子供でも幸福でなかったら、
その子のために心を痛め、
幸せな気分にはなれないと思うのです。
逆に子どもの立場からしても、
自分の親が幸福でないのに、
自分が幸福でいることなどできません。
したがって、
兄弟のことは強く愛さないとしても、
親子関係が影響することで、
兄弟の不幸が自分にも影響してくるのです。
そんなことを考えていたころ、
私は幸せではありませんでした。
不幸とまでは言わないまでも、
まったく幸せな気分に浸るということが
なかったのです。
幸せそうな人を見ても、
素直に喜ぶことができません。
幸せそうにしていられるのは、
周りの人のことをよく知らないか、
無視しているからだと思えたのです。
世界に目をやれば、
飢えて死にそうな人が山ほどいます。
それなのに自分が有り余る食物を得て、
「これは美味しくない」とか
「これはもう飽きた」などと
贅沢なことを言っている。
幸せを感じることに
罪悪感を持っていたと言えるでしょう。
そしてその罪悪感を、
他人にも押し付けようとしました。
葬式の時、
身内の人間は悲しい思いでいるのです。
それなのに、
付き合い程度の気持ちでやってきて、
数珠を空中に放り投げて遊んでいる。
「他人の気持ちがわからないなら来るな!」
そう言って、
ほっぺたを張り倒してやりたい
と思ったこともありました。
けれども今、
そういう私の考え方が自分自身を縛り、
自分を幸せから遠ざけていた
とわかりました。
世界全体が幸福でなければ
個人の幸福がないという考えは、
立派な考えに思えますが、
間違っています。
人は誰も、
今すぐその場で幸せになれるのです。
他の人が幸せになるかどうか、
決めるのはその人自身です。
それなのに、
自分が決めてあげることができるなんて、
そう考える方が不尊というものでしょう。
不幸な人は、
自ら望んで不幸になっています。
厳しい言葉に聞こえるかもしれませんが、
それが事実です。
自分でわざわざ
不幸になるような考え方を選択するから、
不幸なのです。
「それじゃあ不慮の事故で
子どもを亡くした親も、
考え方を変えれば
幸せになるとでも言うの?」
「そんなことで不幸を感じているのが
悪いとでも言うのか!?」
そんなふうに批判めいた疑問を
ぶつけたくなるかもしれませんね。
以前の私も、そう言ったと思います。
実際、大学の先輩から
「傷付く方が悪い」と言われた時、
憎しみにも似た気持ちが湧いて来ました。
http://4awasejsn.seesaa.net/article/287892192.html
そういう
人の気持ちがわからないヤツがいるから、
世の中から不幸な人がなくならないのだ
と思いました。
でもそれは、
私の考え方が間違っていたのです。
よくよく考えてみれば、
自分が傷つくことを選択したのだ
とわかります。
同じことをされて傷つく人と
傷つかない人がいることが、
端的にそれを証明しています。
子ども亡くして
悲しんでいる人との出会いは、
ひとつの出来事です。
その出来事は、自分に
機会(チャンス)を与えてくれます。
幸せになるチャンス、愛するチャンス、
より素晴らしい自分自身を
体験するチャンスです。
ですから、
その出来事が自分への贈り物となるのです。
そこでどう考え、どう行動するかは、
すべて自分自身を規定するものです。
自分とはいったいどういう人間なのか?
それを宇宙に示すことになるのです。
一方、子どもを亡くして悲しんでいる人は
どうでしょうか?
実はその人も、
その人としての人生を歩んでいます。
ですから、
子どもを亡くしたということも
一つの出来事ですし、
悲しんでいるときに
誰かが何かをしてくれたことも、
また一つの出来事なのです。
その出来事を通じて、
自分に機会(チャンス)が与えられます。
それは、
自分がどういう人間であるかを
表現するチャンスです。
このように、
互いが贈り物を与え合っています。
それぞれの人生に
影響を与え合っているのです。
けれども、
その中で自分が何であるかを決めるのは、
自分の考え方だけです。
他人がどんな贈り物を与えてくれるかは、
まったく関係ありません。
そこには何の決定権もないのです。
その出来事に意味を与え、
どういう体験として経験するかを決めるのは
自分です。
自分の考え方が、
自分のすべてを決めています。
ですから、
他人がどう思うか、
どう考えるかなどに関係なく、
自分の考え方を選択することが
大切になります。
どうせなら、
幸せに感じるような考え方を
選択した方が良いと思いませんか?
幸せを、
出来事の「結果」という立場から
解放するのです。
幸せは、単に自分の態度です。
自分がどんな態度をとるかを
決めるだけのことです。
その態度は、
どんな自分として生きるのか
ということの「原因」となります。
それが、
幸せという態度をツール(道具)として
人生を生きるという意味です。
「幸せなら手をたたこう」
という歌がありましたね。
あれ、インスピレーションから
生まれた歌だそうです。
実に素晴らしい歌だと思いませんか?
手をたたくから
幸せになるのではありません。
幸せだから手をたたくのです。
幸せということが原因になっています。
けれども、
そうやって手をたたくと、
さらに幸せな気分になってきます。
実際にやってみてください。
歌いながら手をたたいてみてください。
何もないのに、フツフツと
幸せな気分が込み上げてきませんか?
思考が現実を創造したのです。
幸せな態度が幸せな言葉を生み、
その言葉が行為を生み、
行為が現実を引き寄せたのです。
その現実とは、
「私は幸せだ」というものです。
世界中の人が幸せになるのを
待つ必要性はありません。
まず自分自身が幸せになるのです。
そしてその幸せを原因として、
世の中に幸せを広げていくのです。
「幸せになるために」ではなく、
「幸せだから」そうするのです。
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